~河内大橋5~

2017年6月18日 (文化財課)

河内大橋はどこに?

 それでは、「河内大橋」はどこに架けられていたのでしょうか。その位置については、(1)大和川と石川の合流点の北、大和川付け替え地点にあたる築留付近とする説、(2)柏原市高井田と国分の間、現在の国豊橋付近とする説、(3)石川に架かる長尾街道、現在の石川橋付近とする説、などがあります。そして、(1)の築留付近でまちがいないでしょう。(2)や(3)の位置は、奈良時代の行幸路から離れているのです。歌にみえる片足羽川とは、大和川のことでしょう。

 天平12年(740)に聖武天皇が智識寺の蘆舎那仏を礼拝していること、孝謙天皇が河内六寺に参拝し、その際に智識寺南行宮に宿泊していることなどから、天皇の行幸に利用された竜田道は、奈良時代中期には青谷付近から山越えで安堂町付近へと下っていたと考えられます。この付近で大和川を渡り、大和川左岸の渋河道を通って難波宮へと向かったのでしょう。さらに、「家原邑知識経」の家原邑が築留のすぐ東に位置することから考えて、「河内大橋」が架橋されていたのは築留付近と考えてまちがいないでしょう。

 安堂町付近の発掘調査の結果、近鉄大阪線安堂駅の北側で等高線が西に張り出し、この部分のみ奈良時代の遺跡が西に広がっていたことが確認されています。また、大和川の西側でも近鉄道明寺線の柏原南口駅の周辺で、奈良時代の遺跡が東に広がっていたことが確認されています。つまり、この両地点の間、大和川付け替え地点のすぐ北側付近で大和川の川幅がもっとも狭く、地質的にも安定していたと考えられます。「河内大橋」を架けるならば、この付近以外に考え難いと思います。千年後の宝永元年(1704)に大和川がこの地点で付け替えられたのも偶然の一致ではなく、この付近がもっとも川幅が狭く、地質的に安定していたからなのです。

 この付近がもっとも川幅が狭かったというものの、それでも300m以上の川幅があったと考えられます。京都府大山崎町付近で淀川を渡っていた山崎橋の長さは180間(327m)とされています。「河内大橋」は、それに匹敵するか上回る長さの橋だったと考えられます。

(文責:安村俊史)

河内大橋とその周辺
写真:河内大橋とその周辺

【特集展示のご案内】
平成29年4月25日(火)から9月10日(日)まで、特集展示「河内大橋」を開催しています。

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