~竹原井頓宮10~

2017年6月9日

竹原井頓宮の最後

 竹原井頓宮について記された最後の史料は、宝亀2年(771)に光仁天皇が竹原井行宮を利用した『続日本紀』の記録です。2月21日に龍田道をとり、竹原井頓宮に至ったということです。この記録から竹原井頓宮が竜田道の沿線もしくは竜田道を終えた付近にあったことがわかります。青谷は竜田道のほぼ中間地点にあたるので、史料とうまく合っています。この際に「節幡の竿が故なく自ら折る。時の人皆執政亡没の徴なりと謂う。」とあります。執政亡没とは称徳天皇の政治のことを指すのでしょうか。それとも光仁の行く先を暗示しているのでしょうか。竹原井頓宮の行く末も暗示しているようにも思われます。

 とにかく、竹原井頓宮はこのあと史料にはみられなくなります。延暦3年(784)の長岡京遷都によって、竜田道は行幸路ではなくなりました。そのため竹原井頓宮は必要なくなったのです。京都府大山崎町の大山崎遺跡群から青谷式の軒瓦が多数出土しています。瓦の特徴から青谷遺跡の出土品と同じもので、青谷遺跡から運び込まれたと考えられています。軒瓦だけでなく丸瓦・平瓦も運び込まれていることから、瓦だけでなく木材や凝灰岩切石などの建築資材も運ばれているのでしょう。大山崎周辺には、長岡京遷都後に河陽離宮、山城国府、山﨑院、山﨑駅などの公的施設が次々と設けられました。青谷遺跡の瓦は、これらのいずれかの施設で再利用されたようです。

 長岡京遷都に伴って、難波宮の建物が長岡宮へ移築されていることがわかっています。竹原井頓宮の建物も、これらいずれかの施設に移築されたのではないでしょうか。このあと、竹原井頓宮跡は荒れ果てたまま現在まで残ってきました。長岡京遷都が784年、青谷遺跡の発掘調査が行われたのが1984年。ちょうど1,200年間の眠りについていたことになります。眠りから目覚めた遺跡を保存し、その性格を少しでも明らかにしてやりたいと思います。造営から1,300年を記念して。

(文責:安村俊史)

竹原井10
青谷遺跡瓦出土状況

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