~竹原井頓宮9~

2017年6月5日 (文化財課)

竹原井頓宮の変遷

 養老元年(717)に初めて登場する竹原井頓宮は、天平16年までには竹原井離宮と呼ばれるようになったようです。それが、宝亀2年(771)には竹原井行宮と呼ばれたようです。
この変化をどのように考えればいいのでしょうか。

 設置当初、竹原井頓宮は、臨時的な施設と考えられていたのでしょう。ところが、聖武天皇が神亀3年(726)に難波宮の造営に着手し、天平4年(732)ごろに完成するに至って、平城宮と難波宮を結ぶ常設の離宮として整備することになったのでしょう。それが、青谷遺跡で発見された瓦葺建物でしょう。つまり、瓦葺建物として整備されることによって離宮と呼ばれるようになったと考えられます。別な視点からみると、青谷遺跡の遺構は、竹原井頓宮の遺構ではなく、竹原井離宮の遺構と考えるべきなのでしょう。

 その瓦葺建物の一部もしくはすべてが解体され、掘立柱建物になっています。天平勝宝8歳(756)の『万葉集』にみえる「河内離宮」が竹原井離宮のこととすると、その後竹原井離宮は史料から姿を消し、次にみえるのが宝亀2年(771)です。この間に、称徳天皇が竜田道を通って由義宮を二度訪れていますが、竹原井離宮は利用せずに斑鳩の飽浪宮を利用しています。このとき、竹原井離宮は利用できない状態だったのではないでしょうか。そしてその理由は、由義宮の造営のために竹原井離宮の施設の一部を由義宮に移築したためではないでしょうか。由義宮の位置は未だに確定できていません。将来由義宮が発見されたときに、その地から青谷式軒瓦が出土するのではないかと考えています。

 宝亀2年(771)に光仁天皇が竹原井を行宮として利用することになり、緊急に掘立柱建物などを整備して利用に供したのではないでしょうか。そのため、離宮と呼ばれていた竹原井は行宮と呼ばれたのではないかと思うのです。推測に推測を重ねた話となってしまいましたが、このように考えると、調査成果と史料にみえる竹原井頓宮の変遷がうまく一致するのです。さてどうでしょう。

(文責:安村俊史)

コラム竹原井9
青谷遺跡航空写真

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