~竹原井頓宮8~

2017年5月29日 (文化財課)

もう一つの行宮

 柏原市域には、竹原井頓宮とは別の奈良時代の行宮がありました。智識寺南行宮(ちしきじみなみのあんぐう)です。『続日本紀』によると、天平勝宝8歳(756)2月24日に孝謙天皇が利用しています。難波宮へ行幸に向かう途中、ここに4泊し、智識寺など河内六寺への参拝を行っています。その帰路にも智識寺行宮に2泊しています。南行宮と同じ施設と考えていいでしょう。名称から智識寺の南にあったことは間違いないでしょう。

 天平12年(740)に聖武天皇が智識寺の蘆舎那仏を礼拝し、自分もこんな仏像を造ってみたいという願いが、東大寺の大仏として現実のものとなりました。智識寺南行宮を設置した目的は、東大寺の大仏の開眼供養も終わり、大仏がほぼ完成したことに対するお礼と、そのころ体調が思わしくなかった聖武天皇の健康回復を智識寺に祈るためだったと思われます。そのために智識寺などを参拝するのに便利なように、智識寺の近くに新たに行宮を設けたのでしょう。

 これより先、天平勝宝元年(749)にも孝謙天皇は智識寺に行幸しており、その際には茨田宿禰弓束女の宅を行宮としています。この弓束女の宅と智識寺南行宮は同じものなのでしょうか、それとも別も施設なのでしょうか。一般に行宮は臨時的な一度限りの施設であることを考えると、弓束女の宅と智識寺南行宮は別の施設で、天平勝宝8歳に新たに造られたと考えたほうがいいのでしょう。もちろん新たに造営する際に、弓束女の宅を提供したことは十分に考えられるところですが。

 この智識寺南行宮に関わるのではないかと考えられる資料が、安堂遺跡からみつかっています。若狭国遠敷郡から税の調として納められた塩に付されていた木簡です。この塩は、当然ながら平城宮に納められたはずです。それが、なぜ安堂遺跡から出土したのか。天皇から智識寺に寄進されたものか、行宮造営の代価としてもたらされたのか、行宮造営の労働者に配られたものか、行幸時に食料として持ちこまれたのか。それは天平勝宝元年の行幸に伴うのか、それとも8歳の行幸に伴うのか。さまざまな解釈が可能なので、慎重に考えていくことが必要でしょう。

(文責:安村俊史)

コラム竹原井8
調塩木簡

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平成29年3月25日(土)から6月11日(日)まで、企画展「竹原井頓宮」を開催しています。

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