~竹原井頓宮7~

2017年5月22日

河内国分寺跡

 青谷遺跡の大和川対岸に河内国分寺跡があります。国分寺は、天平13年(741)に聖武天皇の発願によって国ごとに建立されることになりました。国分僧寺と尼寺が建立され、河内国分尼寺はもっと西にあったと考えられます。各地の国分寺は、国府の近くの広く開けた土地に建立されることが多かったのですが、河内国分寺は南に山が迫り、北は急激に落ち込んで低湿地となるような場所に建設されています。寺院の立地として決して好ましいものではありません。河内のような大国で、これは不思議としか言いようがありません。河内国分寺の造営が、青谷遺跡の瓦葺建物の造営よりもやや遅れると考えられることから、先にできあがっていた青谷遺跡すなわち竹原井頓宮の対岸に建設することにこだわったのでしょう。それを指示したのは、聖武天皇だったのかもしれません。

 国分寺跡では、昭和45年(1970)に塔跡の調査が実施されており、一辺約19mの基壇が良好に残っていました。凝灰岩切石による基壇や階段、礎石が残り、基壇上面には凝灰岩の切石が敷き詰められていました。塔一辺の長さは10.36mあり、七重塔でまちがいないでしょう。現在は基壇が復元され、いつでも見学できます。

 塔の立地する尾根から谷をはさんで西側の尾根で、金堂と考えられる遺構も発見されています。基壇基部に凝灰岩の切石が並んでおり、東西44.4m、南北28.2mの基壇の南辺に幅16.7mの階段が取り付くと復元されています。大規模な基壇ですが、建物の規模は不明です。おそらく、金堂の北に講堂があったものと考えられます。金堂に先立つ小規模な基壇状遺構も確認されており、金堂建設前に仏堂などが建っていたのかもしれません。

 竹原井頓宮から眺めると、大和川の対岸に緑の山を背景として、大規模な金堂や七重塔がそびえ立っていたのでしょう。聖武天皇らは、この景色に心をなごませたことでしょう。

(文責:安村俊史)

コラム竹原井7
河内国分寺跡金堂跡と下層遺構

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