~竹原井頓宮4~

2017年5月1日 (文化財課)

史料からみた竹原井頓宮

 『続日本紀』に竹原井頓宮が見えるのは、養老元年(717)、天平6年(734)、天平16年(744)、宝亀2年(771)の4回です。このうち、天平16年には離宮、宝亀2年には行宮と記されています。これら4回以外にも神亀2年(725)、神亀3年(726)、天平12年(740)、天平17年(745)の難波宮行幸の際に利用された可能性が高いと考えられます。

 養老元年が竹原井頓宮の初見で、元正天皇が難波宮に行幸したあと、和泉宮を経て平城宮へ還る途中に竹原井頓宮に1泊しています。

 天平6年には、聖武天皇が完成した難波宮に行幸し、その帰路に竹原井頓宮に2泊しています。この年の河内国の安宿・大県・志紀三郡の田租が免除されています。

 天平16年には元正太上天皇が、難波宮から珍努離宮と竹原井離宮に1泊ずつというあわただしい行幸を行っています。このときのみ竹原井が離宮と記されています。

 『万葉集』の巻20-4457の題詞に、「天平勝宝八歳丙申二月朔乙酉廿四日戊申、太上天皇太皇大后河内離宮に行幸」とあります。この「河内離宮」とはどこのことなのか。『続日本紀』には、天平勝宝8歳(756)2月24日に、孝謙天皇が智識寺南行宮に行幸したことが記されています。この翌日に、孝謙は河内六寺に参拝しています。『万葉集』の題詞は、一般には「太上天皇、天皇、大后」の誤りと考え、聖武、孝謙、光明の3人が智識寺南行宮に宿泊し、これが河内離宮だと考えられています。しかし、臨時的な行宮を河内離宮と表現するでしょうか。天皇を書き誤るというのも不自然です。孝謙天皇は智識寺南行宮に、聖武太上天皇と光明皇太后は竹原井離宮に宿泊したと考え、竹原井離宮は河内離宮とも呼ばれたと考えるべきだと思います。

 宝亀2年には、光仁天皇が竹原井行宮を利用しています。これが竹原井の最後の史料です。離宮と記されていたのが行宮に変わっています。

(文責:安村俊史)

コラム竹原井4
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