~竹原井頓宮2~

2017年4月17日

奈良時代の行幸

 天皇がお出かけになることを行幸といいます。これは今も昔も同じです。古代の天皇もたびたび行幸を行っています。その目的は、政治的目的、寺院参拝、保養などさまざまです。現在でも天皇の行幸となると警備などで大変な騒ぎとなりますが、古代にはもっと仰々しいものでした。天皇だけでなく、各省の大臣など役人も同行しました。政治機構がそのまま移動したのです。そして、それぞれの従者や兵隊など多数の人々が同行しました。

 奈良時代にもっとも頻繁に行われた行幸は、平城宮から難波宮への行幸でした。難波宮は副都と位置づけられ、一時的ですが正式な都にもなっています。聖武天皇のときには瓦葺きの豪華な宮殿として整備されました。

 平城宮から難波宮への行幸路は、平城宮の朱雀大路を南下し、羅城門付近から西、斑鳩へと向かいました。法隆寺や竜田大社の前を通って大和川沿いの竜田道で生駒山地を越えます。奈良時代の初めは柏原市青谷付近で大和川を左岸へ渡り、左岸堤防に沿って四天王寺付近へ至り、そこから難波宮の朱雀大路を北進したと考えられます。その大和川の渡河点付近の右岸に青谷遺跡があります。

 瓦葺きの難波宮は、天平4年(732)ごろに完成したようですが、これから間もなく竜田道のルートが変更されたのではないかと考えられます。青谷で大和川を渡河せず、一旦山の中に入って柏原市安堂付近に下り、そこで大和川を渡河したのではないかと考えています。その後は大和川左岸沿いに進み、変更はありません。

 天平12年(740)に聖武天皇が智識寺の蘆舎那仏を参拝していることや、孝謙天皇が河内六寺を参拝し、そのころ河内大橋と呼ばれる橋が大和川に架けられていたと思われることなどから、山越えルートへの変更があったと考えています。

 このルート上にある青谷遺跡は、屈曲する大和川に山々が迫る景観にすぐれた地です。この景観の素晴らしさも、頓宮設置の大きな条件だったと考えられます。
(文責:安村俊史)

コラム竹原井2
平城宮から難波宮への奈良時代の行幸路

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