~竹原井頓宮1~

2017年4月10日

竹原井頓宮とは

 竹原井頓宮(たかはらいのとんぐう)とは、奈良時代に柏原市内にあったと考えられている天皇の仮の宮のことです。養老元年(717)2月、元正天皇が和泉宮から平城宮へ還る途中に、竹原井頓宮に宿泊したことが『続日本紀』に記されています。ここに初めて竹原井頓宮が登場します。それから今年(2017年)で1,300年。これを記念して、竹原井頓宮についての企画展を開催することにしました。

 奈良時代の公式記録である『続日本紀』には、竹原井頓宮だけでなく、竹原井離宮、竹原井行宮とも記されています。これらは、基本的には同じ施設を指すと考えていいでしょう。奈良時代の天皇は、平城宮と難波宮あるいは和泉宮をしばしば往来しました。平城宮と難波宮との距離は40km余りで、とても1日では無理な距離です。そのため、ほぼ中間にあたる位置に設けられたのが竹原井頓宮でした。

 かつては、音の類似から柏原市高井田に存在したと考えられていました。しかし、高井田からは竹原井頓宮に関連すると考えられる遺跡はみつかっていません。そのなかで、塚口義信先生が、柏原市青谷にある青谷廃寺が竹原井頓宮の跡ではないかと提唱されたのです。青谷廃寺は、東から西に流れる大和川が、芝山にさえぎられて流れを大きく湾曲する右岸にあたります。過去に調査をされたことはなかったのですが、奈良時代の瓦が出土することから寺院跡と考えられていました。

 この青谷遺跡で昭和59年(1984)に発掘調査が実施されることになりました。調査の結果、瓦葺きの礎石建物や石敷き遺構、それに伴う多数の瓦などが出土しました。大きな建物を回廊状の建物が囲む遺構は寺院とは考えられず、これこそが竹原井頓宮の跡だと考えられるようになりました。

 今回の企画展「竹原井頓宮」では、青谷遺跡の調査成果を広く紹介し、史料と比較することによって竹原井頓宮の変遷について考えてみたいと思っています。

(文責:安村俊史)

コラム竹原井1
青谷遺跡周辺航空写真(赤色が青谷遺跡、緑色が河内国分寺跡)

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