6.後期群集墳

2017年3月10日 (文化財課)

群集墳とは

 群集墳とは小規模な古墳が群集して密集度の高い古墳群をいいます。古墳時代後期(6世紀)に最盛期を迎え、しばしば山の斜面や丘陵上の比較的狭い土地に築造されました。河内でも大規模な群集墳がみられ、これらの大半は6世紀末もしくは7世紀初頭をもってその造営を終えました。直径10~20メートル程度の円墳が接するほど密集し、周濠や堤は造られていません。これら群集墳は、支群と呼ばれる幾つかの小単位を形成し、全体として大きな群集墳になっています。

 その出現、形成、終末の時期は様々で、5世紀代に始まり6世紀末まで営々と続くものから、7世紀に入って新しく形成が始まるものまであります。7世紀になって新たに造営される群集墳については、終末期群集墳とも呼ばれます。

 埋葬施設の大半は横穴式石室ですが、木棺直葬や小石室などもみられます。さらに副葬品は造営集団の性格を反映して、武器や農具など極めて多様です。

群集墳の背景

 5世紀代の群集墳は初期群集墳、あるいは古式群集墳などと呼ばれ、木棺直葬などの埋葬施設に、少量の鉄製品を副葬するものがみられます。しかし、後期の群集墳に続くものは少なく、6世紀前半頃から、典型的な群集墳が造営されるようになります。
※こちらも併せてご覧ください。<5~6世紀ごろの背景>

 そのひとつとして、河内を代表する群集墳として平尾山古墳群が出現します。

平尾山古墳群

 平尾山古墳群は6世紀から7世紀に形成された群集墳で、柏原市東部の東山と呼ばれる山間部に広がっています。1974年から75年の大阪府教育委員会による分布調査を経て1400基以上の古墳が確認され、未調査部分も含めると2000基以上が存在したと推定されています。これは全国最大規模で、山畑古墳群(東大阪市)、高安古墳群(八尾市)、一須賀古墳群(河南町・太子町)とともに平尾山古墳群は河内の代表的な大群集墳です。

河内の四大群集墳
河内の4大群集墳

平尾山上空南側から
上空から見た東山(南側より)

 古墳が造られたピークは、6世紀後半から7世紀前半にあるとされています。大きくは8つの支群に分けられ、平尾山支群と雁多尾畑支群において、7世紀代にも多数の古墳が築かれていた点は、本古墳群の特徴の一つといえます。墳丘の大半は直径10m前後の円墳で、調査で確認されている内部構造の多くは横穴式石室です。

平尾山古墳支群分類
平尾山古墳群 8つの支群

 石室は比較的小型で、切石積みの石室や横口式石槨も少数ながら確認されています。開口方向は時期が下るほど南向きのものが多くなるようです。

 平野・大県支群の一部は平成8~10年度に調査が実施され、現在は「高尾山 創造の森」の名称で、地域の文化遺産を学ぶ場、市民の憩いの場として利用されています。しかし、それ以外には古墳を見学できるところはありません。

公園を散策する子ども
「高尾山 創造の森」を散策する子どもたち

平尾山古墳群の石室

石室は、石の積み方や天井の形態など、さまざまな違いがありますが、最もわかりやすい平面形に注目してみましょう。

1.両袖式石室
玄室から見て羨道が中央にある石室です。

・玄室平面が長方形になるタイプ
 おそらく大和を中心とする大型横穴式石室の影響を強く受けたものと考えられます。たとえば、平野・大県20-3号墳においては、平面形態はやや異なるものの、大和二塚古墳(奈良県葛城市)の後円部石室との共通性が指摘できます。

・玄室平面が方形に近いタイプ
 一須賀古墳群などにも認められ、在地的性格が強いものと考えられます。長方形タイプの石室に比べて規模の小さいものが多くみられます。そして、方形タイプの石室は長方形タイプの石室の影響を受けつつ、7世紀には両者の区別がみられなくなるようです。

2.右片袖式石室
 このタイプは玄室から見て羨道が左側に寄っている石室で、高井田山古墳の系譜のもとに展開していきます。袖石が2~3段で、玄室と羨道の天井比高差が小さいものが多く、両袖式石室の影響を受けているものもみられ、その特徴は7世紀代にまで維持されています。

 両袖式石室との最も顕著な違いは、当初から袖石に縦長の石を立てて一石積みを基本とする両袖式石室に対して、右片袖式石室は7世紀代に至っても2段積みを基本としています。石室の開口方向が両袖式は西寄りに向き、右片袖式が東寄りに向くことも併せて考えると、被葬者集団の違いに関係する現象ともとらえられます。しかし、実際にはひとつの小支群内に両袖式石室・右片袖石室が混在しているケースもあり、今後、各支群内での分析を重ねていく必要があります。

3.左片袖式石室
 玄室から見て羨道が右に寄っている石室は類例が少なく、不明な点が多いため、平尾山古墳群においては例外的と言えます。ただ、右片袖式石室に遅れて採用されていること、右片袖式よりもむしろ両袖式石室との関係が強そうなことなどが指摘できます。

4.無袖式石室
 玄室と羨道の区別がない石室で7世紀初め頃には出現しています。この形態は、羨道への追葬などによる玄室の意義の消失により、袖が省略されるなかで生み出されたと考えられますが、平尾山古墳群内で成立したものか、他地域からの影響によるものかよくわかりません。おそらく、他地域との絶え間ない交流のなかで、追葬の増加、羨道での追葬行為、玄室意識の喪失などにより、ほぼ同時的に出現したものでしょう。

 以上のことから、石室に注目すると平尾山古墳群には複数の系譜が存在することが推定されます。

 また棺配置は、ひとりの人物を埋葬する一棺埋葬と、夫婦を埋葬したのかと考えられる二棺並列埋葬の2系統が存在します。二棺並列埋葬は5世紀後半の高井田山古墳にすでに認められます。これに隣接する6世紀中頃から7世紀初めの高井田横穴群では玄室奥壁に沿って、主軸に直交する棺を先に置いたコの字形の棺配置が主流になり、同時期の平尾山古墳群とは異なる埋葬方法があった点は注目されます。

副葬品が語る造営集団

 平尾山古墳群の副葬品には、渡来系氏族に特徴的な炊飯具のミニュチュア土器がみられることなどから、渡来系の要素の濃厚な被葬者集団と想定されています。

 渡来系氏族といっても、武器、武具などの軍事的要素は希薄で、釵子(さいし・かんざし)や鉄滓(てっさい)の出土から、さまざまな知識をもつ文人的集団、技術を必要とする生産に関わる集団とみられます。その中には山麓部の大県・大県南遺跡の鉄製品生産に携わる集団も含まれていたことは間違いないでしょう。しかし、推定1,400~2,000基の古墳が、すべて山麓部の集落の集団によって造営されたと考えることは難しいと思われます。

 おそらく山麓部よりさらに西方の平野部の集団も含まれると考えるほうが妥当なようです。たとえば、6世紀前葉で造墓を終える長原古墳群(大阪市平野区)の集団が、平尾山古墳群で造墓を継続している可能性なども考えられます。

 このように考えると平尾山古墳群の被葬者は、複数の集団で構成され、全体にわたって軍事的要素が薄く、格差が少ないことなどが挙げられます。また、渡来系の副葬品を出土する古墳は、副葬品を出土した古墳の4分の1程度に限られ、すべての被葬者を渡来系と考えることができるのか、在地系の人々が含まれている可能性も考えておくべきでしょう。

出土した金属器
各古墳から出土した金属器(撮影:阿南写真工房)

平尾山古墳群の分類

 古墳群は地形や古墳の密集度から、安堂、高井田、平尾山、雁多尾畑、本堂、太平寺、平野 大県、青谷の8支群に分類されますが、これらを単一の古墳群とすることには異論もあります。

・各支群を独立した古墳群とする
 各支群の造営時期に差がみられることなどから、各支群を別々の集団によって造営された独立した古墳群とみなす考え方があります。いくつかの古墳群が集まって現状のような景観になったと考えるものです。

「平尾山千塚古墳群」と「平尾山支群」

 平尾山支群はこれまで「平尾山千塚古墳群」と呼称されてきた地域に相当し、この呼称による研究が古くから行われてきました。現在は大阪府教育委員会の分布調査に基づき、東山全体を「平尾山古墳群」と呼称していますが、従来からの「平尾山千塚古墳群」との混乱を招いています。

・全体をひとつの古墳群とする
 各支群の境界が不明瞭で、石室形態や副葬品に目立った個性がみられないことから、全体をひとつの古墳群としてとらえる見解です。柏原市は、現在この考えで全体を平尾山古墳群としています。

 平尾山古墳群は、山麓部に点々と比較的規模の大きい古墳がまず築かれ、次第にその周辺にも古墳が築かれるようになり、支群を形成していきました。平野・大県支群を中心とする山麓部では6世紀代、雁多尾畑支群、平尾山支群の山間部では7世紀代の古墳が多数を占めています。

 しかし、玄室規模や開口方向、棺配置、副葬品からは各支群の特性が見出し難く、平尾山古墳群全体が等質的と言えます。袖形態や築造時期の違いはありますが、墓域が山麓部から山間部へ移動・拡大した可能性を考えると、各支群の特性とは言えなくなります。

 群全体の等質性を踏まえると、被葬者集団が支群ごとに異なるという前提で考えるより、墓域を拡大したと考えたほうが自然ではないでしょうか。拡大の原因は、山麓部に適当な場所が少なくなり新たな墓域を求めた結果と考えられます。

 いずれにしても、平尾山古墳群内を個別の古墳群に区別したり、ましてそれらを個々の被葬者集団と結びつけることは現状ではむずかしいと思います。複数集団の共同墓域と考えてもいいのではないでしょうか。

発掘調査された古墳

平尾山古墳群は、2,000基ほどの古墳が推定されていますが、そのうちのいくつかは発掘調査がされ、実態が明らかにされています。詳しくはこちら

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