8.火葬墓
火葬のはじまり
3世紀から始まった古墳文化は、7世紀になると、徐々に衰退していきました。そして、新たに火葬墓が出現しました。
文武天皇4年(700)に僧道昭が、大宝3年(703)に持統天皇が火葬されたことが『続日本紀』に記されています。このあと、文武天皇、元明天皇、元正天皇らも火葬されますが、土葬されている天皇もあり、火葬墓が一元的に採用されたわけではありませんでした。
確認されている火葬墓はほとんど8世紀以降のものであり、8世紀に火葬が普及したことは間違いありません。死や埋葬についての古い概念を変え、河内に火葬墓を取り入れたのは、僧侶や渡来系氏族など、開明的な考え方をもつ人たちだったのではないかと思われます。
古墳から火葬墓への背景
古墳造営が減少し、火葬墓が出現してくる背景について、しばしば仏教との関係が指摘されます。古墳の減少により、それまでの労働力、経済力が寺院の建立に向けられたという考え方です。しかし、古代寺院の創建に関わったとされる人物の古墳がその寺院近くに存在することも多くあります。また寺院の完成後は、再び経済力を古墳に注ぐこともできたはずですが、次第に古墳は造られなくなっていくのです。 また火葬墓が浸透するにつれ、古墳が造られなくなったという説もあります。しかし、火葬墓は古墳の造営終了後に採用された墓制であり、決してその出現が古墳の終末の原因ではありません。 6世紀代には、相当な労働力と豊富な副葬品で自らのモニュメントとして築造されていた古墳は、7世紀代になって、次第に単なる埋葬の場へと変化していきました。これが、古墳が造られなくなった背景です。 |
火葬墓について
火葬墓は基本的に火葬した焼骨を拾い、骨蔵器に納めて火葬地とは異なる場所に埋納します。調査された火葬墓の墓坑壁が熱を受けておらず、埋葬地で火葬したと考えられない例が多いのです。また、広範囲の調査にもかかわらず、火葬地が確認されない例もあり、埋葬地とかなり離れた場所で火葬されることもあったようです。
その行程の前後で死者や参列者に対して「まじない」が行われたと考えられています。骨蔵器をそのまま置くか、逆さにするか、縁の一部を壊す、火葬地の灰を埋土にするなど、信仰によると思われる様々な形態があったようです。副葬品はないものが大半で、まじないの道具とみられる鏡や銭貨が見つかることは少数です。
骨蔵器を石組み施設のなか(外槨施設)や、墓坑底に敷石や敷瓦を施して納めたり、骨蔵器の周囲を木炭や灰で埋める火葬墓もあります。
骨蔵器
骨蔵器に利用されるのは須恵器・土師器が一般的ですが、緑釉陶器や金銅製など多様です。それを覆う石製の外容器や墓誌を伴うものもみられます。柏原市域では、8世紀代に須恵器の骨蔵器が主流となり、薬壷形(やっこがた)の有蓋短頸壷がもっとも多く使用されました。その後少しずつ、土師器が使用されるようになり、須恵器があまり使われなくなりました。土師器は口縁の短い甕を使うのが主流で、杯や皿を蓋にしているものが多いようです。
また8世紀代にすべて正立させて埋納していた骨蔵器が、9世紀ごろには倒立させたものが現れはじめ、10世紀にはかなり多くなります。
口縁部を欠いた骨蔵器について、柏原市域で確認されたものはすべて9世紀代とされています。これらは、ほとんどが須恵器で器種も限定されています。口縁を打ち欠く行為は何らかの儀礼や、蓋を被せやすくしたことなどが考えられます。
高井田古墓群の骨蔵器
正立した骨蔵器(高井田古墓群 20号墓)
倒立した骨蔵器(高井田古墓群 1号墓)
柏原市の古墓群
柏原市域で見つかっている奈良・平安時代の古墓群には、良好な火葬墓がいくつかあり、調査・報告されています。
柏原の古墓群
平尾山古墳群雁多尾畑49支群
平尾山古墳群雁多尾畑支群内から4基の骨蔵器を伴う火葬墓が発見されました。周囲に溝をめぐらす火葬墓や自然石で囲んだ埋葬施設があり、古墳に引き続いて火葬墓が営まれた墓域とされています。調査によって、骨蔵器を倒立させたものが見られないことや、造墓が短期間で終了することがわかったほか、調査で出土することの少ない和同開珎の銀銭などが出土しています。詳しくはこちら
太平寺・安堂古墓
昭和58・59年(1983・84)に、市立第二体育館(現・柏原オーエンス第二アリーナ)建設に先立って緊急事前発掘調査が行われ、古墓が確認されています。須恵器の壷に緑釉陶器の椀を被せ、倒立させて埋葬したものが発見されています。水晶の丸玉や少量の砂、銅銭が見つかっています。詳しくはこちら
高井田古墓群
高井田横穴群の北側にあり、時期は8世紀中葉頃から10世紀前葉頃とされています。古墓は29基検出され、そのうち9基には骨蔵器がありませんでした。火葬墓に副葬品が伴うことは少ないなか、ここではガラス玉や緑釉陶器の椀などが出土しています。鉄釘もたくさん見つかりました。詳しくはこちら
玉手山古墓群
平成元年(1989)の調査で、奈良から平安時代にかけての火葬墓と土坑墓が100平方メートルの範囲に58基も発見されました。この中で、骨蔵器を伴い確実に火葬墓といえるものは35基です。副葬品に瑞花双鳳八稜鏡が出土した古墓や、火葬骨や7世紀中頃の須恵器杯、土師器甕が出土したものもあり、注目すべき古墓群です。詳しくはこちら
田辺古墓群
田辺古墳群の西に位置し、調査で見つかった古墓9基のうち、骨蔵器を伴うものは2つです。方形の塼(せん)を敷き並べ、須恵器の甕を倒立で置いたり、平瓦を敷いた上に骨蔵器の壷を置き、それを平瓦で囲むような埋葬法がとられています。和銅開珎が11枚見つかっています。詳しくはこちら
その他
柏原市域の多数の火葬墓の中には、鋳銅製の箱形骨蔵器が出土した玉手山黄金塚古墓があります。また玉手山丘陵南西部の円明古墓群は、総数60基以上とされ、土師器の壷や羽釜などを骨蔵器としたものがみられます。壁面の火化をみると火葬地でそのまま埋葬されたものがあり、奈良時代には火葬地と埋葬地が異なるものが、平安時代になると火葬してそのまま埋葬するものが出現したと考えられます。これら以外にも、玉手山東横穴群の周辺で5基以上の火葬墓が報告されています。
火葬墓の終わり
火葬を採用するにも、古墳から継続して火葬墓へ変化していく場合と、しばらくの断絶期間を経る場合がありました。河内で終末期群集墳を造営していた人々は、火葬という新しい埋葬方法を受け入れることで、墳墓を継続して営んでいたようです。しかしその火葬墓も、10世紀後半には造られなくなり、古代の古墳群は終わりを迎えます。そして、新たな中世の墓制へと変化していったようです。