柏原船10

2017年3月31日

柏原船の最後

 旧大和川を運航していた剣先船は、宝永元年(1704)の大和川付け替えによって、付け替え地点となった築留から上流へ遡ることができなくなりました。住吉大社から南へ延長された十三間川を通って新大和川の河口に入り、そこから新大和川を遡るルートに変更されました。このルートでは、かなりの迂回路となるため、費用や時間もかかります。これによって、河内だけでなく、大和への荷物も柏原船が引き受けることが多くなり、柏原船は活況を呈しました。積荷は、一挙に3倍程度に増えたようです。

 しかし、付け替えから10年もすると、積荷が減りはじめました。新しいルートでの剣先船の営業が軌道にのりだしたことや、平野川の水量減少などがその原因とされていますが、実態はよくわかりません。今後の研究が必要でしょう。

 柏原船は70艘で営業していましたが、それは船株の数であり、実際に運航している船は70艘より少ないこともありました。すでに天明元年(1781)には実働37艘になっていたようです。その後は明治まで、多少の増減はありながらもこの程度の船数だったようですが、明治10年(1877)には20艘、明治20年(1887)には14艘に減少していました。これには、外国綿の輸入などに伴う綿栽培の低下が大きな原因だったのでしょう。

 剣先船の積荷も同様に減っていたため、それまで通行不能であった亀の瀬に堰(閘門)を設けて大和から河内へ直接船を乗り入れできるようにし、明治18年(1885)には人の乗船もはじまりました。しかし、明治22年(1889)に鉄道が開通すると、柏原船・剣先船ともにさらに積荷が減り、柏原船は明治30年(1897)に9艘となり、とうとう明治40年(1907)に最後の2艘が廃業届を出し、300年近く続いた運航は終わりました。同じころ、剣先船の運航も終わったようです。

 今となっては、平野川を船が往来していたとは考え難い風景ですが、柏原船が柏原周辺の村々に対して、経済や文化における大きな役割を果たしたことは覚えておきたいと思います。

(文責:安村俊史)
柏原船船だまり
写真:柏原船船だまり
(柏原船の終点、右側が了意川で左の道路が水路跡、中央の広場が荷揚げ場だった)

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