柏原船9

2017年1月10日

末吉家と柏原船

 戦国時代に堺と並んで自治都市として栄えた平野郷には、坂上田村麻呂の子の広野麻呂の子孫と称する「七名家(しちみょうけ)」があります。その一家である末吉家は東末吉と西末吉の系譜があり、西末吉家の末吉孫左衛門は、江戸時代初期に幕府の代官として多数の村を支配していました。柏原村もその一つで、洪水からの復興を目指して柏原船の運航は始めたことは、ここまで記してきたとおりです。

 柏原船の運航当初は、柏原村周辺の人々が船持となっていましたが、寛永17年(1640)に大文字屋などの「大坂組」が参加するのにともなって、「平野組」として平野郷町の人々も柏原船の営業に参加することになりました。平野郷町からは、末吉家や辻葩家、土橋家などの七名家や、車屋、古銅屋、播磨屋、油屋などの商人も多数参加し、惣年寄や十四日講も船株を所有していました。

 末吉家は、元禄9年(1696)には5艘でしたが、徐々に数を増やし、天明7年(1787)から8年にかけては20艘の船持となっていました。しかし、天明8年から寛政元年(1789)にかけて10艘を譲渡し、以後明治まで10艘の船持でした。

 平成28年2月に、末吉孫左衛門の家系の分家にあたる末吉康三郎氏から、柏原船や青地樋組に関わる古文書を所蔵しているので見に来られませんか、という連絡をいただきました。そこで史料を見せていただいたところ、柏原船の史料も多数所蔵されていることがわかりました。今回の展示では、その中から船持の取り決めを記した『船持一統申合之事』(天明6年・1786)、船株を譲った『譲状』(文政6年・1823)、三田家・寺田家から末吉家への書状を借用して展示させていただくことになりました。三田家・寺田家との書状は多数あり、柏原船の営業だけでなく、活発に交流していたことがわかります。

 柏原船の調査はあまり進んでいませんが、このように少しずつでも進めていくことができればと思っております。

(文責:安村俊史)
船持一統申合之事
写真:「船持一統申合之事」(末吉康三郎家文書)

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