柏原船6

2017年2月22日

柏原船のすがた

 水深が浅く、幅の狭い川を運行するため、船は平底で小さいものでなければなりませんでした。大和川を運航していた剣先船は、舳先が剣のように尖っていたので「剣先船」と呼ばれたのですが、柏原船はよく似た形態で、長さの短いものでした。

 記録によると、長さが7間4尺5寸。普通は6尺で1間となるのですが、ここでは5尺で1間と数えるため、39尺5寸、約12mとなります。幅は7尺(2.1m)、深さ1尺4寸(42cm)、底板の幅は5尺8寸5分(1.8m)の大きさでした。

 剣先船は長さ11間3尺(17.6m)、幅1間1尺2寸(1.9m)、大和の大和川を運航していた魚梁船(やなぶね)は、長さ8間半(14.7m)、幅5尺(1.5m)です。魚梁船は剣先船よりも短く、柏原船はさらに短かったのですが、幅は柏原船のほうが広かったようです。屈曲の多い平野川を運航するために長さを短くしなければならなかったけれども、積荷の量を少しでも確保するために幅を広くしたのでしょう。

 船には加子(かこ・船頭)が2人乗り、普段は棹で、上りには引き綱も使って運航したようです。引き綱を使う際には、1人が岸から綱で引いたようです。船には、城米で12石、商人荷物で15石積みとなっていましたが、実際には20石程度の荷を積めたようです。

 船の建造費は、元禄15年(1702)で1艘につき銀250目とあります。これは5か月分の売り上げに相当する金額です。なお、20年程度で新造が必要だったようです。

 積荷は上りが干鰯や種粕などの肥料が多く、下りは米や綿類などが多かったようです。肥料は盛んになった綿栽培に欠かせないもので、干鰯といっても、実際には北前船で運ばれてくる鰊が多かったようです。これらの肥料によって、柏原周辺の村々の綿栽培が営まれたのです。

(文責:安村俊史)
外壁使用されていた船板
写真:本郷の建物の外壁に使用されていた柏原船の船板

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