柏原船5

2017年2月15日

運航の実態

 船持は、株として船を所有しているだけで、実施には船年寄が営業を取り仕切り、大坂天満の船乗に船を預けていました。柏原、平野、天満には船会所があり、そこに常駐する支配人が、積荷の重さを改め、船の使用料として船床銀(上前銀)を船乗から徴収し、諸経費を差し引いた額が船持に分配されました。柏原村の船会所は、今町の北端、奈良街道の西側にありました。

 柏原船の営業の拠点は、柏原にありました。船会所でも荷揚げが行われたようですが、柏原船の終点は、三田家の南西、了意川の西側にあり、「船だまり」と呼ばれました。ここから北西へ分岐する水路を利用して、ここで船の方向転換が行われました。了意川と水路のあいだは半月状の広場となっており、ここで荷の積み下ろしが行われました。現在児童公園となっている地にあたります。

 船1艘あたり1か月に銀五十目ほどの売り上げがあり、8匁前後の船床銀があったようです。宝永元年(1704)の大和川付け替えによって、旧川筋で運航していた剣先船が十三間川を南下して新大和川を遡ることになったため、柏原船の利用が増え、船床銀は3倍程度に増加したようです。しかし、江戸時代の中ごろから利用は徐々に減り、船数も減少していきました。

 柏原船には、代官所から極印が押されました。寛永18年(1721)にすべての船が平野へ集められ、極印が押されました。これ以降、極印のない船の運航は認められなくなりました。新しい船をつくったときは、廃止する船の極印部分を切り取って代官所へ持参し、新しい船に極印を押してもらったようです。そのころ、船は1年おきに7艘ずつつくりかえられていたということです。全部で70艘あったので、船の寿命は約20年といったところでしょうか。

(文責:安村俊史)
青地樋
写真:青地樋(大和川付け替え後はここから取水していた)

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