柏原船4

2017年2月7日

大坂組の参加

 柏原船の営業が開始されたころ、大阪市中の川筋には、上荷船(うわにぶね)・茶船(ちゃぶね)と呼ばれる川船が運航していました。上荷船・茶船は、大阪市中を独占的に運航しており、ほかの船が市中に入ることは認められませんでした。どうしても入る場合は、上荷船・茶船に料金を払うことになっていました。ところが、柏原船は、幕府から大阪市中への乗り入れが認められていました。また、それまで上荷船・茶船は、平野川でも運航していたのですが、平野川は柏原船が独占的に運航できることになったため、これを不服とする上荷船・茶船と柏原船のあいだで、争いが絶えませんでした。

 柏原船の営業をはじめた末吉孫左衛門長方のあとを継いで代官となった長明は、柏原村の復興を急ぐために、大坂の商人を柏原船仲間に参加させることにしました。これに応じた14人の大坂商人が、「大坂組」として寛永17年(1640)に柏原に移り住み、柏原船仲間に加わりました。これで船数は30艘増えて70艘になりました。平野から参加するようになった「平野組」8人10艘、もとからの「柏原組」15人27艘と惣仲間持ち3艘を加えて、合計70艘、三組による営業体制ができあがりました。

 大坂組14人は、先に開かれた「新町」の北に「坂井町」と呼ばれる町を開いて、やはり道の両側に店を構えることになりました。長さ35間半ということなので、60m余りにわたり、店舗のみが建ち並びました。1軒あたりの間口は5間(9m)程度の建物になります。坂井町の地は、現在の大正通りの南側にあたります。

 ところが、坂井町での営業がようやく軌道にのった正保3年(1646)、洪水で破損した堤防の復旧工事が終わった地への再移転が代官から申しつけられました。大坂組の人たちが、止むを得ず移った地が「今町」です。今町では、奈良街道の両側に、坂井町と同じように店が建ち並びました。その後、今町が柏原村の経済の中心として栄えていきます。三田家のように、今町移転から現在まで住み続けておられる家もあります。

(文責:安村俊史)

了意川船だまり
写真:了意川(右側が船だまり、柏原船の終点)

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