柏原船1

2017年1月10日

くり返される洪水

 今の大和川は、宝永元年(1704)に付け替えられた人工の川であることは、みなさんご存知のことと思います。付け替え前の大和川は、現在の柏原市役所の前から北北西に流れていました。その大和川が、たびたび洪水をおこしていたこともご存知だと思います。大和川の左岸にあたる柏原村(河内国志紀郡)も、たびたび洪水に襲われていました。

 『柏原船由緒書』によると、柏原村を襲った二度の洪水から村を復興させるために柏原船を運航するようになった、とあります。その二度の洪水とは・・・。

 元和6年(1620)5月20日に、大雨で柏原村の大和川堤防が切れ、運ばれてきた砂によって田畑が埋まってしまいました。さらに寛永10年(1633)8月10日には、長さ300間(540m)にわたって左岸堤防が切れ、同じ志紀郡の船橋村や国府村(藤井寺市)でも堤防が切れたようです。柏原村では45軒の家屋が流され、36人が死亡、牛馬6疋が死んだとあります。このころの柏原村は、現在の八尾市との市境付近、国道25号の西側付近にありましたが、被害が大きかったため、その南、洪水で運ばれてきた土砂が堆積してやや高くなった今の本郷の地に村を移しました。もと村があったところは耕地としましたが、その地は「古屋敷」と呼ばれました。この二度の洪水によって、柏原村は大きな打撃を受けてしまいました。この洪水から復興するために運航されたのが、柏原船だったのです。それでは、柏原船とはどんな船だったのでしょう。紹介していきたいと思います。

 それにしても、柏原村は、大和川の洪水によって、これだけ大きな被害を受けていながら、大和川の付け替えには一貫して反対していました。洪水の心配よりも、村の土地を奪われることを心配したためでしょうか。

(文責:安村俊史)

参考文献 『柏原町史』1955年
今町絵図
:今町絵図(右が北、濃い茶色が了意川、柏元家文書)

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