7-3.誉田山古墳群

2017年3月24日

 柏原市と羽曳野市にまたがる古墳群で、西名阪自動車道の南側に広がっています。鉢伏山から北へのびる尾根上に50基前後の古墳が存在したようです。大半が横穴式石室のようですが、未調査のまま破壊されたり、調査されていても未報告で、その実態は不明です。

誉田山古墳分布図
誉田山古墳群分布図

誉田山古墳群の調査

昭和46年(1971)の分布発掘調査

 昭和46年(1971)に大阪府教育委員会によって分布調査が実施され、その報告(大阪府教育委員会1971)では、柏原市域のみを誉田山古墳群とし、羽曳野市域の古墳は飛鳥千塚古墳群のI支群としています。また、同年頃に数基の古墳が発掘調査されたようで、墳丘は、すべて直径10~16mの円墳とされますが、詳細は不明です。ここでは、前者の柏原市域の古墳について紹介します。

出土品
 14号墳と20号墳から土師器ミニチュアの炊飯具を中心とした土器が出土しています。14号墳からは竈(かまど)、甑(こしき)、把手付椀、広口壺各1点が出土、20号墳からは甕、把手付鍋各1点、椀3点が出土しています。どちらも横穴式石室のようです。

15号墳の横口式石槨
 15号墳の主体部は横口式石槨で、小さい割石を積んで構築され、入口部に凝灰岩の切石を立柱のように立てていたようです。(大阪府教育委員会による分布調査概要では、14号墳が槨室と報告されており、分布調査時と発掘調査時で古墳番号に混乱がみられます。)石槨部の長さは2.18m、幅1.10m、高さ1mとされています。

 この石槨部に敷かれていたというタイル状の塼が多数出土しています。確認できた個体数は40点で、厚さ1cm弱と薄く、土師質ですが堅く焼けています。形態は、

  1. 長さ30cm、幅約15cmと大型で楕円形のもの、
  2. 長さ約30cm、幅約10cmと細長い長方形状のもの、
  3. 20~30cm四方の方形のもの

に大きく3分類できますが、それらの中間形態のものもみられます。

 また、表面に2cm前後の方形のスタンプのような痕跡や、同じく方形の突起部が見られる塼もあります。石槨内で、これらの塼が敷かれた上に棺が安置されたようですが、なぜ小判形にする必要があったのか、理解に苦しむところです。鉢伏山西峰古墳(羽曳野市)出土の塼は楕円形のものはありませんが、厚さや焼成はこれらとよく似ています。

 また、7世紀中ごろの須恵器も出土しているらしく、15号墳の年代を示していると考えられます。6世紀代の古墳もあるようですが、7世紀代の古墳を中心とする終末期群集墳と考えてよいでしょう。

平成23年(2011)の発掘調査

 誉田山古墳群内にある関西電力送電鉄塔の建て替えに伴い、古墳に関連する可能性のある遺構が見つかったことを受け、柏原市教育委員会が、平成23年7月に全面調査を行いました。新しい鉄塔の脚部分近辺を調査範囲としています。なお、現在は埋め戻されています。

誉田山調査位置図
平成23年の調査区位置図
(図出典:柏原市教育委員会 2013「柏原市内遺跡群発掘調査概報」)

 鉄塔の東側に露出していた石材は、調査の結果、横穴式石室の奥壁と判明しました。石室は無袖式で、規模は幅約1.1m、長さは約4.5m以上、使用石材はすべて花崗岩で、ほとんどが自然石とみられます。この古墳の盛土は確認できず、自然流失以外にも鉄塔脚部設置の際の削平によって、盛土のほか、石室の天井石・側壁等が失われた可能性があります。

平面調査図
調査区平面図(図出典:柏原市教育委員会 2013「柏原市内遺跡群発掘調査概報」)


石室平面図画像
石室平面図(図出典:柏原市教育委員会 2013「柏原市内遺跡群発掘調査概報」)

誉田山石室
石室全景

 周溝の可能性として、調査区域の北側と東側に落ち込みがありました。しかしいずれも、平面形が明確な弧を描かず、遺物もなかったため、確証は得られていません。仮に周溝とした場合、直径約6.8m程度の円墳が復元できますが、奥壁との距離が狭く、石室に対して墳丘が小さいようです。遺物は石室内最下層にあった鉄釘のみで、土器などは出土していません。

 この古墳の周辺では、石室とみられる石が露出しており、位置関係から直径8m前後の墳丘があるようです。尾根筋上に古墳が密集していた様子が想像されます。

誉田山位置概略図
誉田山古墳群 位置概略図
(図出典:柏原市教育委員会 2013「柏原市内遺跡群発掘調査概報」)

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