5.柏原市の横穴群
横穴とは
正確には古墳ではない、横穴
横穴は、岩盤などに掘りこまれた洞窟のような施設を、墓として利用したものです。古墳の一つの形と考えられますが、古墳とは墳丘(盛土)をもつ墓のことなので、正確には古墳とは言えません。それで、横穴(「よこあな」「おうけつ」)、横穴墓(「よこあなぼ」「おうけつぼ」)などと呼ばれます。6~7世紀を中心に、北は東北南部から南は宮崎県まで全国に広く分布していますが、近畿地方には少なく、大阪では柏原市域でのみみられるものです。
横穴の形態
横穴の前には、墓道(ぼどう)と呼ばれる切り開かれた道が長くのびています。3基前後の横穴の墓道が1本の墓道につながっていることも多く、これらの横穴がひとつのグループとなり、一家族に対応するのではないかと考えられています。墓道を進むと、狭いトンネル状の通路に行きあたります。この部分を羨道(せんどう)、また羨道の入口を羨門(せんもん)と呼んでいます。その奥に、死者を埋葬するための空間があり、この部屋を玄室(げんしつ)と呼びます。
横穴の造りかた
柏原市内にある高井田横穴群には未完成の横穴が数多くあり、墓道掘削中のもの、羨道から玄室を掘削中のもの、玄室まで掘り進んでいるが仕上げが行われていないものなどがあります。これら未完成の横穴を参考に、横穴がどのような手順で掘り進められたのか見ていきましょう。
手順
まず、横穴を掘る位置を決め(図1)、
(図1)
墓道を掘り進めます(図2)。
(図2)
天井の高さを十分に確保できるところまで掘り進むと、羨道の掘削にかかり、それに合わせて、羨門(せんもん)を丁寧に加工していきます(図3)。
※羨門(せんもん)…羨道の入口。
(図3)
羨道がほぼ掘り上がると玄室の掘削に。玄室は、天井に近いところから掘り進めているようです。これは、床に傾斜があると掘削土を運び出しやすいことと、掘り進めてから天井を掘り広げるのが大変だったからだと思われます。
玄室を奥へ掘り進めるとともに、入口近くから仕上げにはいっているようです(図4)。
(図4)
最後に、玄室を丁寧に加工すると完成です(図5)。
(図5)
道具、人員、手間
墓道掘削時には、天井がないので大きな鍬を使えますが、羨道・玄室の掘削では大きな道具を振り回せないので、手斧(ちょうな)を使ったと考えられます。荒掘りには、幅5cmの前後の刃先の平たい手斧を使い、仕上げには幅10cm前後の刃先の丸い手斧を使ったようです。
※手斧(ちょうな)…柄の曲がった鍬(くわ)形のおの。現在では大工道具として木材を荒削りしたのち平らにするのに用いられる。
羨道や玄室の掘削の初期は1人ですが、玄室の掘削が進むと2~3人で作業することができます。左と右で掘削した人が違ったり、左利きの人が掘ったと考えられる横穴もあります。そして、掘削土の運び出しにも、2~3人が従事したことでしょう。ひとつの横穴は、1人でも造れますが、普通は4~5人で造ったと考えられます。
また、未完成でも埋葬されている横穴がいくつもあり、玄室が未完成にもかかわらず羨門が非常に美しく加工された横穴もあります。内部よりも外見を重視したのでしょうか。
高井田横穴群
高井田横穴群は、横穴が密集することや線刻壁画の存在などから、その一部が1922年に国の史跡に指定され、研究者のあいだではよく知られていました。ところが、1980年代に周辺で大規模な開発が始まり、横穴群の保存問題は大きく揺れ動くことになりました。1990年、開発に伴う保存範囲を拡張して史跡に追加指定され、開発で一部を失うものの、横穴群の大半が保存されることになりました。詳しくはこちら
安福寺横穴群
柏原市玉手町にある安福寺の参道の両側斜面にあります。この横穴群の特徴として、騎馬人物の線刻壁画や陶棺の存在があげられます。大部分が大阪府の史跡に指定されています。詳しくはこちら
玉手山東横穴群
柏原市の南西部にある玉手山丘陵の斜面にあり、多くが破壊されましたが、現在もいくつかの横穴が残っています。高井田や安福寺の横穴群に比べると、規模においてやや劣る印象ですが、箱式石棺や陶棺、石室に伴う排水溝や敷石などが見られることが特徴です。詳しくはこちら
太平寺横穴群
柏原市太平寺にありましたが、道路建設によって破壊されています。6世紀末から7世紀中ごろの、他の横穴群よりもやや新しい横穴群です。市内の他の横穴群と違い、花崗岩層に掘られています。詳しくはこちら