4.高井田山古墳
高井田山古墳は、歴史資料館に隣接する史跡高井田横穴公園内にある古墳です。公園の北東部、最高所に位置し、周辺の樹木がなければ、大和川を眼下に見下ろすことができる地です。
平成2年、史跡高井田横穴公園の整備にともなって発掘調査が行われました。その結果、墳丘をもつ円墳で、埋葬施設は初期の横穴式石室であること、ひのしや鏡など豊富な副葬品があることなどが明らかになりました。
(柏原市教育委員会 『高井田山古墳 柏原市文化財概報』 1995-II 1996)
現在は石室を見学できるようにして、出土品のレプリカを置いています。透明なプラスチック板の屋根で覆われ、石室周囲のどこからでも内部の様子を見学することができます。
また、出土品の実物(副葬品の鏡、ガラスの首飾り、ひのし)は歴史資料館に展示中です。ぜひ、あわせてご覧ください。
現在の石室内の様子
現在の外観
築造
古墳は22mの円墳で、北側に小さな突出部をもつ可能性があります。埋葬施設は板状の安山岩を使用した初期の横穴式石室ですが、石室の上半分は調査前に崩れて原形をとどめていませんでした。
築造は、自然の地形を削って形を整え、その中央に約1mの深さの穴(墓坑)を掘り、横穴式石室の下半分をまっすぐに積み上げていきます。そこから上は、石材を少しずつ前にせり出す「持ち送り」という技法で積み上げ、ドーム状の天井となっています。天井を積み上げる際には石材の裏にも多数の石を置いて安定させながら、墳丘の盛土も並行して行います。最後に、大きくて平らな石を3石ほど使って天井としたようです。そして、盛土によって墳丘を整えて古墳の完成となります。
※持ち送り…最下部の基礎石の上に扁平な石を積み上げるのに、上にいくにしたがって次第に内側にせり出すように積む方法。最上部に天井石をのせて、その重さで壁体をおさえ、石室を堅固にする。
高井田山古墳平面図(柏原市文化財概報 1995-II)
石室
墳丘中央にある横穴式石室は、南に開口する右片袖式の石室です。玄室から見て、羨道が左側に寄って取り付き、右側が壁となるので右片袖式と言います。玄室の長さ3.73m、幅2.34m、羨道の長さ2.0m、幅1.18mの規模です。羨道は、多数の石を積み上げて閉塞されていました。高井田山古墳の築造は、5世紀後半ごろの年代と考えられ、そのころの百済の横穴式石室の影響を受けているものと考えられます。
玄室内には木棺が2つ平行に並んでいたと考えられ、安置された2つの棺は、厚さ7~9cmのコウヤマキの板材を鉄釘で組み合わせたものです。西棺は一部盗掘を受け、荒らされていましたが、東棺は未盗掘でした。副葬品の出土位置から被葬者は頭を北に向けて埋葬されていたことがわかっています。
高井田山古墳石室
石室奥壁
横穴式石室の原型 高井田山古墳の石室は、近畿地方で6世紀以降に展開する石室の原型として 大変重要な意義をもっています。この高井田山型のルーツは、形態や構造的な類似から朝鮮半島・百済の石室に直接求められますが、全く同じ形の石室はなく、 その設計プランと構築技術が近畿地方にもたらされたと理解されます。 こうした朝鮮半島から近畿地方への直接的な流入は、朝鮮半島の国々との関係の変化や、大和王権の列島における政治的優位性の確立と積極的な対外交流の結果もたらされたものであり、5世紀から6世紀にかけての東アジアの政治情勢の一端を物語っています。 |
副葬品などの出土状況
石室内
【入口付近】
・須恵器(無蓋高杯、有蓋高杯蓋、ハソウ)
【石室南西隅】
・土師器(長頸壺、甕)
須恵器出土状況
西側棺
・金製耳環1点
・鉄刀
東側棺
副葬品や出土位置から北に頭を置いた女性と考えられています。
【頭部北側】
・銅鏡
・火熨斗(ひのし)
東棺頭部 副葬品 出土状況
【頭部付近】
・金製耳環1対(2点)
・ガラス玉を連ねた首飾り
【体部付近】
・鉄刀1本
・ガラス玉の腕飾り、足飾り
・足元から銀製品
棺外(玄室内)
・横矧板鋲留衝角付冑(よこはぎいたびょうどめしょうかくつきかぶと)、横矧板鋲留短甲(たんこう)、頸甲(あかべよろい)、肩甲(かたよろい)、鉄小札の草摺(くさずり)など甲冑一式
※これらは棺の上に置かれていた可能性があります。
冑・頸甲・肩甲出土状況
草摺小札出土状況
・20点程の槍、矛、刀
・鉄鏃約150点
短甲・鉄槍・鉄鏃出土状況
・馬具片
墳丘および石室埋土
・埴輪(円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋形埴輪)
・須恵器器台や脚付壺、壺などの大型の土器
主な出土品
【土器】
・須恵器の有蓋高坏・蓋が8組、無蓋高坏が3点、ハソウ1点(石室の入口付近)
・土師器の長頸壺や甕、製塩土器(石室南西隅)
・須恵器器台や脚付壺などの大型の土器(墳丘の崩落土の中)
8組もの有蓋高坏は、死者を葬る祭祀が盛大に行われたことを示すのかもしれません。ただ石室内は狭いため、祭祀の場は別にあり、祭祀終了後に入口近くに置かれたのでしょう。このような土器の副葬は、朝鮮半島での事例が多く、古墳時代前期~中期の日本列島ではほとんどみられないことから、高井田山古墳を始まりとする横穴式石室の採用に伴って、新たに取り入れられたと考えられます。古墳時代前期から副葬の事例が知られる土師器壺などが、須恵器と別の場所に置かれている点は注意され、須恵器とは違う用途、意味があったのかもしれません。
また須恵器器台などの大型の土器は墳丘上に置かれたもので、見つかっている埴輪とともに、墳丘上での祭祀に使用されたと考えられます。
須恵器・土師器
【横矧板鋲留衝角付短冑】
頭の上部を覆うところはほぼ完存していますが、鉄が腐食してさびが著しく進んでいます。
横矧板鋲留衝角付冑
甲冑復元模型(柏原市市民歴史クラブ製作)
【神人龍虎画像鏡】
鏡の面径20.6cm、縁の厚さ1.3cm、重さ127.7gの青銅鏡です。遺存状態は良好で鏡面と背に状態の違いもなく、亀裂や欠損もありません。神にその侍人たち、半人半獣像や虎・龍像などが表現されています。
X線写真などにより、「王氏作竟佳且好 明而日月世之保服此竟者不知老 寿而東王公西王母山人子高赤松 長保二親宜子孫」と読めます。
神人龍虎画像鏡
【火熨斗】
「ひのし」「のし」「うっと」などと言います。柄杓のような形で、椀の部分に燃える炭を入れ、熱くなった椀の底を布にあててしわを伸ばすための道具、つまりアイロンです。古墳時代の火熨斗は、日本で4例ほど知られていますが、完全に残っているものとしては2例のみです。そして、高井田山古墳の火熨斗は、韓国の武寧王陵から出土している火熨斗とそっくりです。これは武寧王の王妃の副葬品で、高井田山古墳出土品と何らかの関係があったと思われます。火熨斗はアイロンという性格上、上層階級の女性のシンボル的な持ち物だったようです。
火熨斗(ひのし)
【耳環】
3点出土している耳環は、いずれも純金製で、丸棒を円環状にしています。西棺にあった1点は、被葬者の左耳に当たると推定され、東棺の2点よりやや大きいものです。
金製耳環
【ガラス玉】
ガラス玉は全部で322個出土しており、風化により白くなったり破損したものもみられますが、残存状態は比較的良好です。被葬者の首、両手首、両足首に装着されていたものと考えられます。
二重になったガラス玉の間に金箔を挟みこんだ金層ガラス玉が1点見つかっており、頸飾りを構成していたものに間違いないようです。
ガラス玉(腕・足・首飾り)
埋葬人物
石室に葬られた2人は、仲良く並んでいることから、おそらく夫婦ではないでしょうか。当時の日本にはそのような習慣はありませんでしたが、中国や朝鮮半島の王族らは、夫婦合葬が普通でした。
このように、石室の形態、埋葬方法、副葬品、儀礼など、さまざまな点において朝鮮半島、そのなかでも百済との強い関係を推定することができます。しかも、火熨斗が武寧(ぶねい)王の王妃の副葬品に一致することや、石室規模が百済の王陵に匹敵する大きさであることを考えると、高井田山古墳には百済から渡来した王族クラスの夫婦が埋葬されたのではないかと考えられます。
被葬者は昆支王か? 高井田山古墳と韓国の武寧王陵は、夫婦が埋葬されている点、さらに火熨斗や金層ガラス玉製品の副葬など共通点が多く、当時の百済との結びつきの強さを物語っています。ことに火熨斗は、双子といってよいほど形が似ています。 武寧王は、百済の第25代国王で、「日本書紀」(8世紀編纂)などによると、昆支王の子又は甥(兄の子)、韓国の歴史書「三国史記」(12世紀編纂)では、昆支王の孫とされています。いずれにせよ、血縁関係が近いことを示しています。 柏原市の大和川南岸地区から羽曳野市にかけて、かつては河内国安宿(あすかべ)郡と呼ばれていました。羽曳野市飛鳥には、昆支王を祭神とする飛鳥戸(あすかべ)神社があります。飛鳥戸神社は、その安宿(河内飛鳥)に鎮座し、一帯は、昆支王とその子孫たちの本拠地だったようです。昆支王は、百済の王族でも国王には即位しておらず、日本書紀によると雄略天皇5年(西暦461)に日本に来たとされています。 高井田山古墳の築造時期は、出土した須恵器によると、5世紀後半とされています。もし、高井田山古墳が西暦460年以前の築造であれば、昆支王が葬られていることはあり得ません。しかし、須恵器の編年の別の見方によれば、高井田山古墳の築造時期は、西暦470年から490年ごろとも考えられるそうです。もしそうなら、昆支王が葬られている可能性は極めて大きくなりますが、残念ながら断定するには確証はなく、あくまで推測に過ぎません。 高井田山古墳に葬られている人物は誰なのか、今後の研究の進展に期待しましょう。 |