3. 5世紀の古墳

2017年1月29日

5世紀前半~中ごろの柏原

 この頃の柏原はどのようだったのか、残念ながらよくわかっていません。大和川北側の本郷、船橋、大県遺跡などで須恵器などが出土していますが、出土量は少なく、遺構もあまり確認できていません。大和川よりも南側に集落はなかったものの、玉手山遺跡(古墳群)や田辺遺跡には、古墳がいくつか築かれたようです。


玉手山・田辺遺跡周辺図

5世紀ごろの玉手山遺跡

 丘陵の北端周辺には古墳時代中期から後期にかけての古墳が少なからず存在したらしく、1982年、1984年に埴輪が集積する溝を調査しています。くわしくはこちら

5世紀ごろの田辺遺跡

 田辺遺跡は、柏原市国分市場、国分本町、田辺に広がる遺跡です。北端で古墳時代前期の松岳山古墳に接しますが、同時期の集落はみられません。

 5世紀代には、数基の古墳が存在したようです。遺跡の北西部、柏原市立国分中学校周辺から円筒埴輪が出土しています。直径30cm余りの埴輪で、5世紀中ごろの年代と考えられます。

田辺円筒埴輪1田辺円筒埴輪2
国分中学校周辺から出土した円筒埴輪

 その周辺からも少量の埴輪が出土しています。これらの古墳と松岳山古墳の造営時期には数十年の空白があり、松岳山古墳とは異なる集団によって築かれた古墳と考えられています。

6世紀・7世紀の田辺遺跡
集落は、遺跡北側が6世紀後半、南側が7世紀中頃に形成されたと考えられています。南側では大型の掘立柱建物や土馬・円面硯などが出土し、その中央に田辺廃寺が創建されるなど、7世紀中頃以降の集落の中心でした。それに対して北側では鍛冶や玉造り、瓦窯など各種の生産を中心としていました。

おいなり古墳
 遺跡の南では、初吉稲荷社が墳丘状の高まりの上にあり、古墳(おいなり古墳)と推定されています。かつては大きな石材が露出していたとも言われ、埋葬施設は横穴式石室ではないかと考えられていますが、これまでの調査では古墳と確認できていません。この南西からも大型の石材の出土が知られており、横穴式石室の古墳が複数存在した可能性が考えられています。

おいなり神社
おいなり古墳のある初吉稲荷社

5世紀後半の柏原

 5世紀後半ごろから、柏原にはかなりの人々が住みはじめました。
 旧大和川の西側にあたる船橋遺跡、本郷遺跡からは遺物や埴輪、東側では、大県遺跡・大県南遺跡から多数の土器が出土しました。5世紀後半以降には鉄製品を生産するために本格的な鍛冶が行われるようになったようです。

 また、太平寺から高井田にかけての生駒山地の山麓部には、5世紀後半から6世紀前半にかけての埴輪が多数出土し、かなりの数の古墳が存在したようです。しかし、埋葬施設は確認されず、木棺を直接埋めた木棺直葬と推定されます。この時期に横穴式石室が出現し、著名な高井田山古墳が築かれています。

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