堤を築く9

2016年10月31日

せめて刈り取りまで

 丹北郡城蓮寺村(松原市城蓮寺)には、麦畑が広がっていました。ここでも大和川の工事が迫っていたため、村人はまだ熟していない青麦まで刈り取り始めました。刈り取りは5月6日には終わる予定でした。城蓮寺村の人たちは、工事担当の岸和田藩(あるいは三田藩か)に、工事の着工をしばらく待ってほしいとお願いしましたが、聞き入れてもらえませんでした。結局、作付面積の三分の一に近い10町(10ha)ほど刈り取りができないまま麦は堤防の下になってしまいました。刈り取りのために手伝いの人を集めようとしたのですが、みんな大和川の工事に参加していて、人手を集められなかったようです。城蓮寺村の人たちにとっては、大きな痛手となりました。

 堤防の調査が行われた4地点すべてで、堤防が築かれる前の真っ黒の有機質層が確認されています。有機質層の存在は、植物の存在を推定させます。作物や草がはえたままで土が積み上げられているということです。城蓮寺村と同じようなことが、ほかの場所でもあったかもしれません。

 堤防の土を積み上げる場合、これら耕作物や耕作に伴う土は軟弱なために取り除き、平らにしてから土を積み上げると堤防の強度が高くなります。しかし、4か所の調査地点では、盛土前の整地はまったく行われていません。小山平塚遺跡では、畑の畝と思われる痕跡があり、八尾南遺跡では島畑かと思われる痕跡がありました。これらから、工事を急ぐために整地を行わなかったことがよくわかります。

 また、つけかえ当時の堤防の表面にも有機質層が認められます。これによって、つけかえ当時の堤防が明確にわかるのです。では、この有機質層は何でしょう。

 これは、堤防の表面に張られた芝の痕跡です。法面にも馬踏にも芝が張られていたようです。堤防の土が流れないように、堤防の表面には芝を張ることが決められていました。芝を張って堤防の完成となるのです。

 堤防を築く際には手抜きをして少しでも早く築こうとしていますが、最後の芝張りはきちんと行っていたようです、見栄えさえよければ中身はどうでもいいということだったのでしょうか。

(文責:安村俊史)

川違新川図

写真:川違新川図(中家文書)

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