堤を築く7

2016年10月17日

堤の形と大きさ

 長原遺跡では、カマボコ状の堤防だったのではないかとされていますが、ほかの3箇所で確認された堤防は、いずれも美しい台形断面でした。長原遺跡の場合は、後世の改変が著しいため、本来は台形だったとも考えられます。あるいは、ほかの3箇所は幕府が直営で工事を実施した区間になりますが、長原遺跡はおそらく岸和田藩が担当した区間となるため、施行者によって若干の違いがあったのかもしれません。先に検討したように、長原遺跡では川床の掘り下げが行われていたと考えられ、掘り下げを行っている区間では、堤防の維持管理が雑になっていたことも考えられるかもしおれません。

 次に堤防の大きさをみてみましょう。八尾南遺跡では、ほぼ設計どおりの堤防が確認されていますが、船橋遺跡、小山平塚遺跡では設計よりも高さで0.9m(20%)程度低いことがわかりました。積み上げられた土が圧縮されて若干高さが低くなっていると思われますが、当初からある程度低かったことは間違いないでしょう。もしかすると、左岸堤防は設計高(2.5間、4.5m)よりも低い2間(3.6m)で施工されたのではないでしょうか。もしそうだとすると、左岸堤防は右岸堤防よりも1間(1.8m)も低かったことになります。今後の左岸堤防での調査に注目したいと思います。

 左岸の2箇所の調査地では、堤防基底部の幅(根置)も若干小さかったようです。これは小山平塚遺跡で発見された杭列によって、設計どおりに堤防幅を示す杭が打たれていたものの、盛土を積み上げた結果、幅が若干狭くなったのだと考えられます。杭はほぼ30cm間隔で打たれていることから、目印としての性格よりも、土留めとしての性格を考えたほうがいいようです。調査では杭だけが発見されていますが、杭と杭の間には割竹などを利用した土留めの工夫がされていたとも考えられます。ほかの調査地では、調査範囲の関係もあり、この杭列は確認されていません。杭列が大和川堤防全体に及ぶのか、小山平塚遺跡周辺だけの工法なのか、これも今後の調査で明らかにしていくことが必要でしょう。

(文責:安村俊史)

北堤と南堤

:南堤と北堤

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