堤を築く6

2016年10月12日 (文化財課)

長原遺跡の調査より

 1994年、右岸にある笠守樋の撤去に伴って、大阪市平野区川辺でも調査が行われています。笠守樋は、新大和川によって水脈が断たれた旧東除川の流域に用水を引くために埋設された取水樋です。

 つけかえ当時の堤防の規模は、北法面・南法面ともにのちに大きく改変されているため、明らかにできません。基底部幅(根置)は17m以上、高さは3m強と考えられ、上面(馬踏)は平らにならず、カマボコ状に丸くなっていたと推定されています。しかし、堤防上を人馬が往来していたことを考えれば、当初は平坦な馬踏があったのではないかと思います。それが、のちに荒らされたり、土が流れたりして不整形になったのではないかと考えられます。

 高さが設計より2m以上低いのですが、その分は川床を掘り下げていたのではないかと考えられます。計画では、川辺より東では川床を掘らずに両岸に堤防を築くことになっており、川辺から西では川床を掘り下げて堤防を造らない計画になっています。調査地は、ちょうどその変換点にあたり、川床を2mほど掘り下げ、高さ3mの堤防を築いて合計5mの高さを確保したのだと思われます。八尾南遺跡よりも堤防基底部の高さが1m余り高いことからも考えても、川床の掘り下げが行われていたと考えるべきでしょう。

 堤防の盛土は、ほとんどが砂で、粘土はみられません。盛土はほぼ水平になるように積み上げられており、八尾南遺跡での盛土の方法に似ています。周辺には東除川の洪水に伴う砂が広がっていたと考えられ、掘削土にこの砂が多く含まれ、それを堤防の盛土として利用したためでしょう。

 ところで、長原遺跡では堤防に大きな穴がいくつも掘られていたことがわかっています。何のための穴かわからないのですが、堤防は各村が定期的に見廻り、崩れた箇所などがあればすぐに奉行所に報告され、補修されていました。よって、大きな穴が掘られるなどということは理解しがたいことです。報告では近世の穴かとされていますが、幕末か明治の規制が緩やかになって以降のものかもしれません。

(文責:安村俊史)

長原遺跡堤防断面

図  長原遺跡堤防断面

【秋の企画展のお知らせ】
平成28年9月13日(火)から12月11日(日)まで、企画展「堤を築く-大和川のつけかえ工事-」を開催しています。

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