堤を築く5

2016年8月28日

八尾南遺跡の調査より

 2006年、八尾市若林町で大和川から取水するための三箇用水樋の撤去に伴って、右岸堤防の調査が実施されました。やはりつけかえ当時の堤防が確認され、基底部幅(根置)26m、上面幅(馬踏)5.4m、高さ5.4mの規模であることがわかりました。基底部幅が設計よりも1.2mほど短いことを除けば、上面幅・高さともに設計どおりの規模です。

 盛土のほとんどが粘土であり、よく見ると粘土は20cm×12~18cmのブロック状のかたまりで積み上げられていることがわかりました。これは鋤(すき、今のスコップ)を踏みこんで粘土を切り出したときの1回の単位だと考えられます。どこかで規則正しく粘土を掘り下げて、これを堤防の盛土に使用していたと推定されます。おそらく、このブロック状のかたまりをモッコにいくつか入れて運んだのでしょう。ブロックの角が丸みをおびているのは、そのためだと考えられます。

 なお堤防盛土の下寄りには耕作土や洪水に伴うと考えられる砂が多くみられ、上方には灰色の締まった粘土が多くみられます。これは、調査地周辺の瓜破台地の掘り下げに伴って、当初は台地表面の耕作土や洪水砂などが積み上げられ、徐々に台地を構成する粘土を掘削して、その土を積み上げていったためと考えられます。盛土は北側がやや高いものの、ほぼ水平に積み上げられており、藤井寺市の2箇所の調査とは積み上げ方が異なっているようですが、その理由はよくわかりません。堤防を強くするために、できるだけ水平に積み上げようとしていたのかもしれません。

 つけかえ当時の堤防直下には、真っ黒の耕作土がみられます。水田の土でしょうか。北寄りには島畑かと思える盛り上がりもみられます。島畑とは、洪水などに伴う砂などを一箇所に高く積み上げ、その上を畑として利用し、低いところを水田として利用する方法で、河内平野で広くみられました。島畑では、綿の栽培が盛んでした。堤防を造るときに、耕作土を取り除いたり整地することなく盛土の積み上げが行われていたことがわかります。耕作土が厚いことから考えると、稲や綿が植わったままだったかもしれません。

(文責:安村俊史)

八尾南遺跡堤防断面図

:八尾南遺跡堤防断面

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