1.玉手山古墳群

2016年10月16日

 今から1700年ほど前に玉手山丘陵上に築かれた、前方後円墳と円墳による古墳群です。北から順に1号墳、2号墳…10号墳となっています。その範囲は南にある羽曳野市・駒ヶ谷周辺の古墳まで含めるのが一般的ですが、地理的な隔たりや、古墳の規模、埋葬施設の構造などから、ここでは10号墳までを玉手山古墳群の範囲と考えます。玉手山古墳群はその規模や数から考えて、古墳時代前期の古墳群として奈良盆地東南部に次ぐ古墳群と位置づけられます。

古墳群分布図
玉手山古墳群分布図

玉手山古墳群 散策マップ
現在は1・2・3・7号墳のみ見られます。散策のお供にぜひご利用ください。

玉手山古墳群の範囲

 玉手山丘陵に展開するこの古墳群の範囲について、一般には、北端の玉手山1号墳から南は駒ヶ谷宮山古墳までとされていますが、南を玉手山10号墳(北玉山古墳)までとするほうがいいのではないでしょうか。

 1号墳から10号墳まで各古墳は接するように築かれていますが、駒ヶ谷宮山古墳は10号墳から南へ1km離れて、ほぼ同時期に築かれています。その後駒ヶ谷宮山古墳から北へ、駒ヶ谷狐塚古墳、駒ヶ谷北古墳などが順に築かれていったようです。

玉手山範囲説の図
10号墳と駒ヶ谷宮山古墳の位置(古墳群の南側)

  玉手山10号墳から北は「古墳時代前期前半から中ごろにかけて」、南は「前期後半」の古墳ばかりです。これらから考えると、駒ヶ谷宮山古墳の被葬者は、玉手山古墳群を造営した集団とは少し距離をおいた人物であり、その後継者が北へと順に古墳を築いた結果、現在の古墳分布となったようです。

 見た目だけでなく、どのように古墳が築かれていったのかを考えるのが大切です。駒ヶ谷宮山古墳周辺の被葬者集団と10号墳以北の玉手山古墳群の被葬者集団がどのような関係だったのか、今後明らかにしていかなければなりません。

 また、玉手山古墳群の東にある松岳山古墳を玉手山古墳群に含める考えもありますが、松岳山古墳は玉手山古墳群の北端の1号墳から1.3kmも離れています。また、松岳山古墳の周辺には小規模な古墳が多数あり、松岳山古墳群として、継続して古墳が築かれています。前方後円墳ばかりの玉手山古墳群と、小規模な古墳の中、1基のみ前方後円墳の松岳山古墳を同じ古墳群とは扱えず、両古墳群は、被葬者集団や築造の契機を大きく異にする集団だったと考えられます。ただし、松岳山古墳で出土したヒレ付楕円筒埴輪と似た埴輪が1号墳で埴輪棺としてみつかっており、何らかの関係はあったのでしょう。

形成時期

 従来、玉手山古墳群は古墳時代前期後半(4世紀後半)を中心とする古墳群とされていました。しかし、奈良盆地南東部の前期古墳の調査において、比較できる資料も徐々に増え、さらに過去の調査資料の整理や研究の進展などによって、主な古墳の造営は古墳時代前期前半(3世紀後半)に遡り、前期中ごろ(4世紀中ごろ)には終息を迎えると考えられるようになってきました。

埴輪で年代を調べる

 近年は埴輪の研究が進み、ある程度の量の埴輪が確認できれば、おおよその年代がわかるようになりました。副葬品からも年代を推定できますが、埋葬施設の未調査や盗掘、副葬品の伝世などで年代が十分にわからない場合があります。埴輪は古墳の築造に伴って製作されるため、その築造年代を示しています。また、大半の古墳から埴輪が出土するため、比較することによって、どちらの古墳が古いか、あるいはどれと同じ年代か、などがわかります。

築造順

 最古の古墳は墳丘長約60mの9号墳(前方後円墳)で、その後100m前後の3、1、7号墳(いずれも前方後円墳)の順で築造されたとみられますが、3・7・1号墳の順と考える研究者もいます。玉手山古墳群を代表するこれら4基が、この古墳群を築造した集団の首長墳、その他は従属的なものと考えられます。

 その他の古墳については難しいのですが、竪穴式石室の構造や副葬品の年代観も参考にすると、3号墳とほぼ同じ年代に6号墳、1号墳とほぼ同じ年代に2・5号墳、7号墳とほぼ同じ年代に4号墳と10号墳が築かれたと考えられます。8号墳は1号墳もしくは7号墳に近い年代だと考えられます。

編年試案表
玉手山古墳群編年試案

過去の調査

 玉手山古墳群は調査されないまま破壊されたり、また調査されていても未報告の古墳も多くあります。そこで柏原市では、保存策を検討するため、過去の調査資料の収集や研究に努めてきました。

 

1928年 西山古墳

小規模な竪穴式石室を主体部とする円墳で、四獣鏡が出土しており、現在は東京国立博物館に所蔵されています。
(小川五郎・水野清一 「河内國玉手山西山古墳調査報告」『考古学雑誌』 第19巻 第8号 1929)

 

1952年 玉手山10号墳(北玉山古墳) 関西大学

竪穴式石室を中心に調査を行い、報告書も刊行されています。
(関西大学 文学部 『北玉山古墳』 1963)

 

1960~70年代には、玉手山丘陵に開発の波が押し寄せ、その破壊に伴い、次々と古墳の調査が行われました。

1959年 5号墳  末永雅雄氏・関西大学
1960年 1号墳、4号墳、6号墳

4・5・6号墳
半壊状態で発見され、緊急に調査が行われました。いずれの古墳も調査後に破壊されてしまいましたが、6号墳の東竪穴式石室は柏原市立玉手山公園内に移設されています。
1号墳
関西大学(末永雅雄氏)によって前方部主軸上とこれに直交するトレンチによる調査が行われましたが、わずかな朱の塊が確認されたのみでした。
(関西大学 考古学研究室「玉手山古墳群調査概報」『史泉』20・21合併号 1960)
※トレンチ調査…遺跡の有無、遺構の分布状況を把握するために溝状の長い調査区を掘る、試掘調査方法のひとつ。

 

1966年 10号墳 大阪府教育委員会 全面調査

西名阪自動車道の建設に伴って、大阪府教育委員会が10号墳の全面調査を実施しています。前方部で粘土槨が発見されるなどの調査結果がありましたが、保存することはできませんでした。
(大阪府教育委員会 『北玉山前方後円墳発掘調査概報』 1966)

1971年 1号墳 大阪府教育委員会

1号墳が破壊の危機にさらされ、大阪府教育委員会による墳丘の範囲確認調査が実施されました。調査によって後円部の裾などが確定された結果、1号墳は保存されることになりました。
(野上文助「玉手山第1号古墳 範囲確認調査」『節香仙1』1971)

1号墳は、その後大半が市有地となり、柏原市教育委員会による調査が実施されています(1987・1989年)。

1980年代には、柏原市が調査や保存に取り組み始めました。

1982年 9号墳 柏原市教育委員会 範囲確認調査
1983年 9号墳 全面調査
1986年 8号墳 墳丘測量調査
1988年 3号墳 墳丘確認調査

9号墳は破壊を前提に調査に着手していましたが、調査中に一転、保存されることになりました。
(柏原市教育委員会『玉手山9号墳』1983)

地滑りによって8号墳が半壊状態になり、緊急の墳丘測量調査を行いました。
(柏原市教育委員会 『玉手山8号墳墳丘測量調査概報』 1987)

 

1987・1989年 1号墳 柏原市教育委員会 後円部・前方部の調査

1987年は後円部を中心に調査を行い、墳丘裾の葺石基底石や埴輪棺が確認されました。

1989年は前方部を調査し、前方裾部の位置決定や段築の状況などにやや問題が残るものの、ほぼ墳丘の規模が確定できるようになりました。また、前方部に粘土槨が存在することも確認しました。
(柏原市教育委員会『玉手山1号墳範囲確認調査概報』1988
桑野一幸 「玉手山1号墳前方部の調査」『柏原市立歴史資料館館報』創刊号 1990)

 

2000~2002年  7号墳 大阪市立大学
柏原市教育委員会
墳丘測量と墳丘および主体部の範囲確認調査

2000年、大阪市立大学 文学部日本史研究室を主体に、柏原市教育委員会や有志の方々によって7号墳の測量調査が行われました。また、柏原市教育委員会の協力の下、大阪市立大学 文学部日本史研究室を主体として、後円部・くびれ部・前方部で発掘調査を行いました。
(大阪市立大学 日本史研究室 『玉手山7号墳の研究』 2004)

 

2003年 3号墳 大阪市立大学 発掘調査(・天理大学によるレーダー探査)
2006年 後円部に十字トレンチを入れ、被覆粘土と盗掘坑の調査
2008年 埋葬施設の全面調査

3号墳の墳形復元や安福寺石棺の出土の真偽を確認するため、2003・2006・2008年と3次にわたって発掘調査が実施されました。
(大阪市立大学 日本史研究室 『玉手山3号墳の発掘調査概報』 2010)

 

2004・2006年 1号墳 大阪市立大学  2004・発掘調査、2006・補足調査

2004年は1号墳の民地(奥田三郎右右衛門の墓所のある後円部墳頂部とその西側)以外の発掘調査が行われ、2006年には、1号墳の前方部東側面も発掘調査されました。
(大阪市立大学 日本史研究室 『玉手山1号墳の研究』 2010)

このように高度経済成長の波にのって、玉手山古墳群の古墳は次々に破壊されていきました。当時の社会状況から考えるとやむを得なかった面もあると思われますが、失われたものはあまりにも大きく、今となっては残念な限りです。

築造順にみるそれぞれの古墳<古墳群一覧表>

玉手山9号墳

 古墳群の南寄りにあり、玉手山古墳群で最古と考えられ、古墳時代前期でもかなり古い時期に位置づけられるものです。初期の埴輪と考えられる円筒埴輪や壷(朝顔)形埴輪片が出土しています。 詳しくはこちら

玉手山3号墳

 柏原市老人福祉センター「やすらぎの園」の南にある前方後円墳で、大坂夏の陣の際に徳川方が後藤又兵衛の隊を破ったことにちなみ、「勝負山古墳」ともいいます。この3号墳は9号墳に続く年代の古墳で、玉手山古墳群内で初めて築かれた100m級の前方後円墳と位置づけられます。

 現在、玉手町の安福寺境内に安置されている割竹形石棺の蓋は、3号墳出土の伝承があり、1990年に重要文化財に指定されています。詳しくはこちら

玉手山6号墳

 5号墳の南にあった前方後円墳ですが、造成により現存しません。後円部には2基の竪穴式石室がありました。銅鏡や革綴冑に伴う小札、非常に珍しい硬玉製の管玉などが見つかっています。古墳群最古の9号墳と石室構造に共通点が多く、9号墳にやや遅れて築かれたと思われます。詳しくはこちら

玉手山2号墳

 1号墳の南、後円部に近接して築造された前方後円墳です。わずかに出土した埴輪から考えると、1号墳に若干先行するかと考えられます。現在は墳丘全体が玉手地区の墓地になっています。詳しくはこちら

玉手山1号墳

 丘稜の北端にあり、墳丘長110mの前方後円墳です。墳頂部には、大坂夏の陣で亡くなった奥田忠次の墓碑があります。古墳群の中で、もっとも良好に残っている古墳です。墳丘裾から楕円筒埴輪を2本をつないだ埴輪棺が発見されています。詳しくはこちら

玉手山5号墳

 4号墳の南東にある前方後円墳です。破壊され現存しません。埴輪がほとんど確認できず、時期を決めることは困難となっています。6号墳と築造時期は近いと考えられますが、6号墳にはない粘土槨や前方部への埋葬が見られるため、6号墳の後に築かれたと思われます。詳しくはこちら

玉手山4号墳

 3号墳の南西にある、墳丘長50m程度の小規模な前方後円墳だったようです。十分な調査がされないまま、開発によって破壊されてしまいました。埋葬施設は粘土槨で、玉手山古墳群の主たる埋葬施設では唯一の例です。詳しくはこちら

玉手山8号墳

 7号墳から100mほど南の玉手山丘陵最高所に位置する前方後円墳です。墳丘の地形改変や激しい崩落により、範囲や規模、埋葬施設を明確にすることはできませんでした。8号墳はこの古墳群の中では、比較的新しいと考えられますが、詳細については今後の課題です。詳しくはこちら

玉手山7号墳

 6号墳のすぐ南の前方後円墳で、2000~2002年の調査で実態がかなり明らかになりました。後円部墳頂には安福寺の珂憶上人が建てた、大坂夏の陣の両軍戦死者供養塔があります。墳頂部から、滑石製の合子が採集されています。

 7号墳の年代は古墳時代前期中ごろ(4世紀前半から中ごろ)と考えられ、玉手山古墳群内ではもっとも新しい古墳の一つとなります。詳しくはこちら

玉手山10号墳(北玉山古墳)

 北玉山古墳の名称で広く知られる前方後円墳です。調査後、西名阪自動車建設によって破壊され現存しません。後円部で竪穴式石室、前方部で粘土槨が確認され、粘土槨からは捩文鏡が見つかっています。詳しくはこちら

西山古墳(玉手山15号墳)

 1928年、玉手山遊園地の施設設置工事に伴って竪穴式石室が発見、調査されています。

 石室はほぼ南北方向をとり、長さ2.2m、幅約0.6m、高さ約0.6mです。壁体は垂直に積み上げられ、天井石は6枚が完存し、天井石の隙間を小さい板石で覆っていました。記録によると粘土棺床は存在せず、床面北寄りから四獣鏡1面、西側壁に沿って鉄剣などが出土したということです。この四獣鏡は現在東京国立博物館に所蔵されています。

玉手山古墳群を築造した集団は?

 1~10号墳の玉手山古墳群の分布図を見ていると、1~4号墳、5~7号墳、8~10号墳の3つくらいのグループに分けられるように見えます。たとえば、1号墳と2号墳、5号墳と6号墳、8号墳と9号墳は、それぞれ対をなすように見え、それぞれのグループは、河内の中の異なる地域を地盤とする3つの集団の共同墓地というわけです。

 築造順にみると初めは9号墳を築いた南のグループが優勢で、3号墳を含む北のグループがそれにとってかわり1号墳も築いたが、最後には中のグループが優勢となって7号墳を築き、一斉に古墳の築造を終えることになったという考え方になります。北のグループが優勢なときには中や南のグループは、やや規模の小さい古墳しか築けなかったと考える研究者が多いのです。古墳の分布だけを見ていると、このような解釈が成り立つように思えます。

 しかし、次のように考えることもできます。丘陵の南寄りに9号墳、その後北寄りで標高のもっとも高い場所に3号墳、その次に北端の高台に1号墳が築かれ、そのあとは7号墳のある場所以外に100m規模の古墳を築く場所がなかったという考えです。100mクラスの首長墳は、その時点でもっとも立地のよい場所を選んで築かれており、そのほかのやや小さい古墳は、周辺のやや立地の劣る場所に築かれたのではないでしょうか。

 玉手山古墳群が複数の集団の共同墓域とすると、その集団間で勢力の交替がしばしばあり、一方で勢力の劣った集団もある程度の規模の古墳を築き続け、そして一斉に古墳の築造を終えたことになり、何か不自然です。それよりも、もっとも有力な首長が9号墳、3号墳、1号墳、7号墳 を代々築き、その周辺に二番手、三番手の人物が、やや規模の劣る古墳を築いていた、つまり集団の中に階層差があったと考えたほうがいいのではないかと思います。そうすれば、古墳時代前期中ごろに急に古墳の築造を終えたという事実も理解しやすいのではないでしょうか。分布図だけでなく、立地や築造順もふまえて考えることが大切だと思います。

駒ヶ谷周辺の古墳

 土砂採取により半壊状態の駒ヶ谷宮山古墳が発見され、大阪大学(北野耕平氏)によって緊急の調査が行われました。駒ヶ谷周辺の古墳は、その後1960年代の開発によって次々と破壊され、一部で緊急の調査が実施されているのみです。
(大阪大学 文学部国史研究室『河内における古墳の調査』1964)

駒ヶ谷宮山古墳(玉手山14号墳)

 副葬品や石室構造から10号墳に前後する、前方後円墳です。
 1962年の土砂採取工事によって発見、大阪大学による緊急調査が実施されました。後円部には竪穴式石室が、前方部には2基の粘土槨が存在しました。詳しくはこちら

駒ヶ谷北古墳(玉手山12号墳)

 前方後円墳、墳丘長55m。1963年に木棺や銅鏡が露出しているのが発見され、翌年大阪大学によって調査が実施されています。詳しくはこちら

駒ヶ谷狐塚古墳(玉手山13号墳)

 前方後円墳で墳丘長92mと推定されていますが、詳細は不明です。1964年に北野耕平氏が一部で調査を実施し、その後破壊され現存しません。詳しくはこちら

古市東山古墳

 駒ヶ谷狐塚古墳の後円部東側に接し、直径20m前後の円墳とされていますが、不明な点が多くあります。墳丘中央に東西方向にのびる粘土槨と考えられる埋葬施設が確認されており、その東端から鉄剣、刀子、ヤリガンナなどの鉄製品がまとまって出土したようです。

玉手山古墳群のその後

 これまでの調査や研究によって、玉手山古墳群では100mクラスでは玉手山7号墳が、その他では玉手山10号墳が最後に築かれたと考えられています。その時期は古墳時代前期中ごろ、実年代では4世紀中ごろまでと推定されます。

 玉手山古墳群において、しばしば問題となるのは古市古墳群との関係です。
 従来は、この二つは年代的に継続するとされ、大きく二つの説が唱えられてきました。一つは、玉手山古墳群を築造した集団が古市古墳群を築造する大王家に成長したという説、もう一つは古市古墳群を築造した集団が、玉手山古墳群を築造した集団を滅ぼしたという説です。そこには、河内王朝論などもからんで、さまざまな考えが出されてきました。

 玉手山古墳群の造営期間中、北河内や南河内にも前方後円墳が築かれ続ける一方で、中河内から南河内北半に顕著な古墳はありませんでした。しかし玉手山古墳群の造営が終了すると、生駒山地西麓や平野部、長原古墳群などで次々と古墳が築造されます。この現象から、玉手山の人々の勢力が、中河内から南河内北半にかけての広い範囲に及んでいたものの、没落し、各地で新たな勢力が台頭してきたと考えられます。没落の原因や新たな 勢力の台頭については今後の研究課題となりますが、津堂城山古墳に始まる古市古墳群の造営が開始されるのは、さらに後の段階になります。

 河内古墳編年表
(出典:十河良和 「河内」『古墳時代の考古学』2 2012)

 しかし、古市古墳群が造営されていたころに、玉手山には古墳がまったく造られなかったというわけではありません。玉手山9・10号墳南側の調査では、おそらく古墳時代中期初めころの、埴輪や柱を立てた祭祀施設と考えられる遺構を確認しています。

 また、丘陵の北端周辺には中期から後期にかけての古墳が少なからず存在したようです。
くわしくはこちら

 横穴式石室も少なくとも2基確認され、安福寺横穴群・玉手山東横穴群の存在も注目されます。しかし、これら中期以降の古墳は、前期の古墳とは切り離して検討するべきと思われます。

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