~玉手山古墳群4~

2016年5月30日

一系列か複数系列か

 玉手山古墳群の分布図を見ていると、1~4号墳、5~7号墳、8~10号墳の三つくらいのグループに分けることができるように見えます。たとえば、1号墳と2号墳、5号墳と6号墳、8号墳と9号墳は、それぞれ前方部を反対に向けて対をなすように見えます。このグループは、それぞれ異なる集団に対応しているのではないかという説があります。河内の中の異なる地域を地盤とする三つの集団の共同墓地が玉手山古墳群だと考えるわけです。そして、初めは9号墳を築いた南のグループが優勢であったが、3号墳を含む北のグループがそれにとってかわり1号墳も築いたが、最後には中のグループが優勢となって7号墳を築き、一斉に古墳の築造を終えることになったと考えるわけです。北のグループが優勢なときには中や南のグループは、やや規模の小さい古墳しか築けなかったと考えるのです。そして、このように考える研究者が多いのです。

 古墳の分布だけを見ていると、このような解釈が成り立つように思えます。しかし、次のように考えることもできます。丘陵の南寄りに9号墳を築いたあと、丘陵北寄りで標高のもっとも高い場所に3号墳が築かれ、その次に丘陵北端の高台に1号墳が築かれ、そのあとは7号墳のある場所以外に100m規模の古墳を築く場所がなかったと考えるのです。100mクラスの古墳、すなわち首長墳は、その時点でもっとも立地のよい場所を選んで築かれており、そのほかのやや規模の小さい古墳は、その周辺のやや立地の劣る場所に築かれたと考えるのです。そして、そのほうが自然ではないでしょうか。

 玉手山古墳群が複数の集団の共同墓域だったと考えると、その集団間で勢力の交替がしばしばあり、一方で勢力の劣った集団もある程度の規模の古墳を築き続け、そして一斉に古墳の築造を終えたということになります。何か不自然なものを感じるのは、私だけでしょうか。それよりも、もっとも有力な首長が9号墳、3号墳、1号墳、7号墳を代々築き、その周辺に二番手、三番手の人物が、やや規模の劣る古墳を築いていた、つまり玉手山古墳群を築造した集団の中に階層差があったと考えたほうがいいのではないかと思います。そうすれば、古墳時代前期中ごろに急に古墳の築造を終えたという事実も理解しやすいのではないでしょうか。分布図だけでなく、立地や築造順もふまえて考えることが大切だと思います。

(文責:安村俊史)

玉手山古墳群分布図

図:玉手山古墳群分布図(大阪市立大学『玉手山7号墳の研究』2004より)

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