~玉手山古墳群2~

2016年5月16日

玉手山古墳群の範囲

 玉手山丘陵に展開する玉手山古墳群ですが、その範囲をどこまでと考えればいいのでしょう。一般には、北端の玉手山1号墳から南は駒ヶ谷宮山古墳までと考えられています。しかし、筆者である安村は、南を玉手山10号墳(北玉山古墳)までとしたほうがいいのではないかと考えています。なぜ、そのように考えるのか。

 各古墳の年代については次回にとりあげますが、1号墳から10号墳までは次々と築かれ、各古墳は墳丘を接するように築かれています。ところが、10号墳とほぼ同じ時期に築かれたと考えられる駒ヶ谷宮山古墳は、10号墳から南へ1km離れています。つまり、10号墳や宮山古墳が築かれたころには、両古墳の間に1kmに及ぶ古墳の空白地が存在したのです。その後、宮山古墳から北へ駒ヶ谷狐塚古墳、駒ヶ谷北古墳などが順に築かれていきました。

 玉手山10号墳から北の古墳は、古墳時代前期前半から中ごろにかけての古墳ばかりですが、10号墳よりも南の古墳は、前期後半の古墳ばかりなのです。これらの事実から考えると、駒ヶ谷宮山古墳の被葬者は、玉手山古墳群を造営した集団とは少し距離をおいた人物であり、その後継者が北へと順に古墳を築いた結果、現在の古墳分布図をみると、まとまった古墳群にみえるだけで、10号墳よりも南の古墳は、別の古墳群として扱ったほうがいいと考えます。見た目だけでなく、どのように古墳が築かれていったのかを考えるのが大切だと思います。駒ヶ谷宮山古墳の被葬者と、10号墳より北の玉手山古墳群を築いた被葬者集団との関係について、今後明らかにしていかなければなりません。

 もう一つ、玉手山古墳群の東にある松岳山古墳を玉手山古墳群に含めるべきだという考えがあります。しかし、松岳山古墳は玉手山古墳群の北端の1号墳から1.3kmも離れています。これを同じ古墳群と考えていいのでしょうか。実は、松岳山古墳の周辺には小規模な古墳が多数あり、松岳山古墳群として、継続して古墳が築かれています。前方後円墳ばかりで築かれる玉手山古墳群と、小規模な古墳が築かれる中に、1基のみ前方後円墳が築かれている松岳山古墳を同じ古墳群として扱うことはできません。両古墳群は、被葬者集団や築造の契機を大きく異にする集団だったと考えられるのです。

(文責:安村俊史)

玉手山古墳群と松岳山古墳群分布図

図:玉手山古墳群と松岳山古墳群分布図(大阪府立近つ飛鳥博物館『百舌鳥・古市古墳群出現前夜』2013より

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