~玉手山古墳群1~

2016年5月6日

玉手山古墳群とは?

 柏原市の南西部に、南北に長くのびる玉手山丘陵があります。西を流れる石川と平行し、北は大和川と石川の合流点近くで終わります。東は原川という小さい川で画され、南は羽曳野市の駒ヶ谷へと続きます。かつては丘陵上に近鉄玉手山遊園地がありました。日本で二番目、西日本では最古の遊園地でしたが、閉鎖されて現在は市立玉手山公園として開放されています。ここで紹介する玉手山古墳群は、遊園地よりもはるか前、今から1,700年ほど前の古墳時代前期の古墳群です。

 玉手山古墳群は、古墳時代前期の前方後円墳十数基が集まっています。丘陵の尾根筋に点々と古墳が築かれ、北から順に1号墳、2号墳と呼ばれています。これだけ多くの前期古墳が存在するのは、大和盆地東南部の大和古墳群周辺以外にはみられず、古墳時代前期の社会を考えるにあたって、欠かすことができない古墳群となっています。

 そのため、古くから多くの研究者の関心を集めてきましたが、あまり発掘調査が行われておらず、行われているものも未報告の調査が多く、実態のわからない古墳群でもありました。そして、不十分な資料からではありますが、玉手山古墳群は古墳時代前期の河内を治めていた豪族が築いた古墳群であろうと考えられてきました。

 また、古墳が築造された年代は、古墳時代前期でも後半にあたると考えられていました。古墳時代中期になると、石川の対岸に大王陵を中心とする古市古墳群が展開します。玉手山古墳群から古市古墳群へは年代的に継続すると考えられて、大きく二つの説が唱えられてきました。一つは、玉手山古墳群を築造した集団が古市古墳群を築造する大王家に成長したという説、もう一つは古市古墳群を築造した集団が、玉手山古墳群を築造した集団を滅ぼしたという説です。そこには、河内王朝論などもからんで、さまざまな考えが出されてきました。

 ところが、近年の調査や研究によって、玉手山古墳群は古墳時代前期でも前半を中心とする古墳群であることが明らかになってきました。かつての説は、一から見直さなければならなくなったのです。それでは玉手山古墳群をどのように考えればいいのか。このコラムで最先端の研究成果を紹介していきたいと思います。

(文責:安村俊史)

畿内の大型古墳群と玉手山古墳群

図:畿内の大型古墳群と玉手山古墳群(大阪府立近つ飛鳥博物館『百舌鳥・古市古墳群出現前夜』2013より)

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