~江戸時代の国分村12~

2016年6月10日

幕末の一揆

 幕末の大きな社会変動は、一農村である国分村にも少なからぬ影響を与えたようです。村の有力者は、海岸警備や長州出兵などに伴って、幕府に多額の献金を行っていました。それによって、苗字を名乗ることを許された人もいたようです。一方、村人は物価の高騰に生活が脅かされていました。そして、慶応2年(1866)に、河内で最後の一揆といわれる騒動がおこりました。米価の高騰に困る村人たちが、村の米屋を次々と襲ったのです。

 5月16日の夜、大和川の堤で早太鼓を叩いて30~40人の村人が集まってきました。集まった村人は、米屋四郎右衛門、久助、利七、栄吉、定七の5軒の米屋を次々と襲って乱暴をはたらきました。その間に、酒造業を営んでいた米屋順之助宅(北西尾家)から酒樽も持ちだしていました。その後、西光寺・西法寺の釣鐘を鳴らして村人を集め、家へ帰るように説得する村役人にもまったく応じませんでした。

 翌17日は明け方から西光寺へ村人が集まり、反別五斗ずつの米を与えること、十月まで一人一日四合の米を半値で売ること、六升の年貢を四升にすること、これを承知しなければ、竹槍で村役人の家を壊すと訴えたため、村役人も承知せざるを得ず、村人を家に帰して騒ぎは一端治まりました。

 これを聞いた代官らは、騒動をおこした者たちを厳しく取り締まることにし、22日に番人ら約200人を動員して村人10人ほどを召し捕えました。しかし、これに怒った村人らは、逆に竹槍を持って番人らを追いかけまわし、捕えた者たちを解放させました。

 しかし、23日の夜に郡山藩などに応援を求めて1000人以上によって騒動は鎮圧されました。その結果、130人ほどを召し捕り、うち9人は引き立てられて行ったようです。これによって、騒動は終結しました。

 幕末には各地で一揆が続発しましたが、ここ国分村でも大きな騒動があったのです。『多羅尾様御支配 当村一起乱妨一件荒増控』には、その経過が記録されています。米価の高騰に困る村人、そしてそのために竹槍で武装する村人、幕末の大きな混乱の中に、国分村の人たちも呑み込まれていったようです。

 企画展「江戸時代の国分村」では、江戸時代の国分村をさまざまな面から紹介しています。地形模型なども展示していますので、ぜひご覧ください。

(文責:安村俊史)

当村一起乱妨一件荒増控

『当村一起乱妨一件荒増控』

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