~江戸時代の国分村11~
立教館の創立
国分村出身の柘植常煕(本名卓馬、葛城とも)が中心となって開いた私塾が立教館です。常煕は、文化元年(1804)に国分村で生まれ、幼少から優秀で大坂懐徳堂の中井碩果に学び、その後頼山陽のもとで学びました。しかし、家業である医師を継ぐために京の医家小石元瑞のもとで学び、文政13年(1830)、26歳のときに国分村に帰って医業に専念することになりました。頼山陽は、常煕の才能を惜しんで学問をつづけるように説得したようですが、常煕は家業を継ぐために村に帰ったのです。
常煕は、国分村の有力者らの財政的援助を受けて、村に私塾をつくることにしました。そして、古市の高屋城にあった江見定四郎の別荘を買い取り、天保12年(1841)に村の風戸にあった明円寺の境内に学舎を新築して立教館を創設しました。その後狭くなったため、文久3年(1863)に新町の東に移転して新学舎が建築され、元治元年(1864)に完成しました。
その立教館の増改築や運営に関わる史料が多数残されています。文久3年の『立教館新造記録』には、増改築にともなう大工の人数や竹木の購入、近隣からの手伝いなどが日付ごとに記録されていいます。元治元年の『日雇附込帳』には、元治元年7月から翌年2月までの毎日の手伝いの人数と名前が記録されています。同じ元治元年の『諸色買物帳』には、道具や食料などの買物が購入先別に記録されています。
立教館での教育方針を書かれた「立教館記」などをみると、儒学教育を基本に「治世之才」を育成することを目的としていたことがわかります。儒学とともに、漢詩や漢文の教育も行われ、道徳的な側面の強い教育だったようです。
その後、建物の大破や移転などのため経営に行き詰まったときもあったようですが、多いときには60~70人もがここで学んだといいます。村内だけでなく、村外からの通いや寄塾生も多かったようです。
明治になると、学校への転換を図るために嘆願をくりかえし、その結果、明治4年(1871)に堺県によって認可されて「国分村小学校立教館」となりました。そして、明治6年(1873)にニ十五番小学校となり、現在の柏原市立国分小学校へとつづいています。
立教館の建物は、大阪府の旧規則により府史跡となり、移設を繰り返しましたが、現在も関西福祉科学大学の校内に保存されています。
(文責:安村俊史)
『立教館新造記録』ほか