~江戸時代の国分村2~

2016年4月4日 (文化財課)

国分村の交通

 国分村の中心部を東西に奈良街道が通っていました。江戸時代になると、この奈良街道に沿って、村は東西にのびていきました。奈良街道は大和街道とも呼ばれましたが、絵図を見ると、大坂方面を大坂海道、大和方面を南都海道と表記するものが多いようです。大坂方面へは、舟渡しで大県郡高井田村へ渡り、そこから大和川右岸堤防を進みました。大和方面へは、村の東はずれの夏目の渡しで大和川右岸の青谷村川端へ渡り、そこから大和川右岸に沿って進み、竜田越(亀の瀬越)で大和に入りました。現在の国道25号の前身となる道ですが、現在のように大和川左岸を通って奈良県へと入るルートは、明治になって開かれたものです。

 村からは、それ以外にも何本もの街道がのびていました。村から西へは長尾街道がのびていました。原川にかかる板橋を渡って片山村を経て石川を渡る街道です。長尾街道は、国分から田辺を通って大和の田尻村へと続いていました。田尻越えとも呼ばれる道です。この街道は、現在の国道165号の前身道路です。この道と分岐して田辺から原川を渡って南西へと向かう道は、駒ヶ谷村へと続いています。五十村越えと呼ばれる道です。古代には、羽曳野市の駒ヶ谷、飛鳥周辺も安宿郡でした。むしろ安宿郡の中心は、飛鳥周辺にあったと考えられます。この道も古代にさかのぼる道だと考えられます。

 国分から六軒を通って尾根を越えると関屋へ至ります。この道は関屋越えと呼ばれました。絵図には初瀬街道とあり、長谷寺などへの道でもありました。少し起伏のある道ですが、江戸時代にはよく利用されたようです。

 奈良街道を青谷へ渡らずにそのまま東へ向かうと、明神山の稜線に向かっての登りとなります。この道は送迎(ひるめ)越えと呼ばれ、蛭目越えとも見えます。そのまま行くと畠田村へ至りますが、途中で北へ下ると藤井村への道となります。聖徳太子を送り迎えしたために送迎越えと呼ばれるようになったという伝承があります。大坂冬の陣のときに徳川家康が通ったという記録もあります。江戸時代には、おかげ参りなどでよく利用される道でした。

 国分船による水運も重要な交通ですが、これは改めて紹介することにしましょう。

(文責:安村俊史)

国分村絵図

国分村絵図

【企画展のお知らせ】平成28年3月26日(土)から6月12日(日)まで、春季企画展「江戸時代の国分村」を開催しています。

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