~おひなさん7~

2016年3月1日

御殿びなと家形埴輪

 明治以降、御殿びなから段飾りが主流になっていったのですが、御殿びなは、その後も作り続けられています。柏原市立歴史資料館の御殿びなも、昭和初期のものです。御殿びなをみていると、時代によって、少しずつ変化していることがわかります。

 江戸時代には、実際の建物をそのまま縮小したような、実物に近い御殿がつくられていました。その後、大正ごろまでは白木の柱や檜皮葺きの屋根が多いのですが、昭和になると、柱や欄干が赤茶色に塗られるようになり、屋根も茶色に塗られます。屋根の茶色は檜皮を表現したものなのでしょうか。

 昭和20年代になると、緑色の屋根が多くなります。銅板吹きを表現したものでしょうか。それとともに、金色の飾りが多くなり、きらびやかになっていきます。それまでの御殿には実物以上の飾りはなかったのですが、とにかく派手になります。それとともに、建物が細長くなります。幅に対して、高さが高くなるのです。これは、ひな人形を飾る場所がない家庭が多くなったことによるのでしょう。それでも、高さを高くすることによって、少しでも豪華にみせようとしたようです。それが、昭和30年代にはさらに強調され、実際には建ちそうもない建物に変わっていきます。そして、昭和40年代になると、御殿びなはほとんどみられなくなりました。

 このきらびやかに、高さが高くという変化をたどった建物がほかにもありました。古墳時代(4~6世紀)にみられた家形埴輪です。家形埴輪は古墳の中心部などに置かれることが多く、その性格については諸説あるところですが、古墳祭祀にとって重要な埴輪であったことは間違いないでしょう。家形埴輪は、4世紀前半ごろに出現し、5世紀ごろまでは実物の建物を比較的忠実にかたどっていたようです。

 ところが、6世紀になると、幅に比べて高さの高いものが多くなります。ひょろ長くて不自然なかたちです。これは、製作の手間をはぶきつつ、できるだけ遠くからも目立つように考えた結果だと考えられます。そして、細長い建物になったあと、家形埴輪はつくられなくなりました。

 そうです。御殿びなは、家形埴輪と同じ運命をたどっているのです。1,500年たっても、人の考えることは変わらないのでしょうか。

(文責:安村俊史)

柏原市平尾山古墳群出土家形埴輪

柏原市平尾山古墳群出土家形埴輪

お問い合わせ

文化財課
582-0015 柏原市高井田1598-1(歴史資料館内)
電話072-976-3430
ファクシミリ:072-976-3431