大坂夏の陣後の柏原

2015年5月21日

大坂夏の陣の終結

 慶長二十年(一六一五)五月五日から六日にかけて、国分から片山・玉手山にかけての一帯は、豊臣方の後藤又兵衛らと徳川方の伊達政宗らの激戦地になりました。江戸時代の玉手村の古記録によると、豊臣方によって家一軒を残し焼き払われたということです。

 徳川方は奥田三郎右衛門忠次や山田十郎兵衛らの戦死者を出すものの、又兵衛を討ち取って、道明寺へと進軍していきます。そして、八日には大坂城を落としました。

 

片山は「勝田山」

 柏原市内の戦いについては、伊達軍の先鋒を務めた片倉小十郎重綱が主君の政宗に提出した報告書が『伊達家文書』に残されています。それによると、重綱は龍田越を通り、「勝田山」の麓に到着したとし、鉄砲を打ちかけて、又兵衛を破ったと記しています。

 この「勝田山(かつたやま)」は、すなわち片山(かたやま)の音にひっかけているのでしょう。徳川家康が陣取った岡山(おかやま)が、「御勝山(おかちやま)」と呼ばれるようになるのと同じことで、徳川方にとって戦いに勝利した縁起の良い地となったのです。

 

徳川方の名所として

 夏の陣から約半世紀後の延宝七年(一六七九)、柏原在住の三田浄久は『河内鑑名所記』を執筆します。その中には、夏の陣の戦跡地として、玉手山の「勝松」(この呼び方も、徳川方の勝利にちなんだものでしょう)が挙げられ、戦いに因む和歌も載せられています。

 また、この頃までに奥田忠次を供養する「墓碑」が建てられていたことがわかります。この墓碑は、現在は縦長で上部が山型のものですが、絵図によっては別の形で描かれているものもあります。

 

戦跡地の巡礼

 延享三年(一七四六)に記された玉手村の古記録によると、奥田忠次の子孫と考えられる奥田八郎右衛門が大坂川口の警護役に就任した際、その家来たちが忠次の墓碑と、玉手村の三右衛門が保管していた忠次の兜を見学に来たということです。重要な軍務を全うするため、命をかけて戦った先祖の武勲にあやかろうとしたのでしょう。

 

巡礼する幕臣の和歌

 時は幕末、大坂東町奉行の水野忠一や大坂船手の甲斐庄正誼(かいのしょうまさよし)、鉄砲奉行の西井資英(にしいすけひで)、材木奉行の杉浦年英(すぎうらとしなが)、弓・具足奉行の石川通睦(いしかわみちよし)、破損奉行の宮寺一貞が、忠次の墓碑を訪問し、称える和歌を詠んでいます。嘉永二年(一八四九)には、その和歌が刻まれた石碑が忠次の墓碑の横に建立されました。

 忠一の歌は「君も臣も ますら雄草の いさましき ほまれしるくも あふかるゝかな」です。忠次もその家臣も立派な武士で、その名誉は今も尊敬されている、という意味でしょう。彼らは八尾の戦いで戦死した藤堂高虎の家臣が葬られた常光寺も訪問し、和歌を詠んでいます。

 大坂の陣は徳川の世を定めた戦いでした。そのため、戦死者の慰霊は重要なことでした。そして、幕末、外国船が日本近海に来航するようになり、海防の意識が高まります。幕臣は大坂の陣を思い出し、再び徳川家のために戦おうと決意を新たにしたのでしょう。

(文責:天野忠幸)

歌碑

歌碑の内容-解読・里井百合子(藤井寺郷土研究会)

奥田忠次君并臣五勇士墓前

浪華市尹 水野若狭守

  君も臣もますら雄草のいさましき ほまれしるくも あふかるゝかな  源忠一

同舩長 甲斐荘喜右衛門

  あハれなる中の心をかたやまに のこすもおもき 石のおくつき  橘正誼

浪華銕炮奉行 西井源次郎

  君も臣もやたけ心のあつさゆみ ひきもたかへぬ いさをとふとし  源資英

同材司 椙浦重良兵衛

 ほとゝきすはさしほれていにしへを 空にあとゝふ さみたれのころ  源年永

浪華御弓御具足奉行兼 石川良左衛門

 もろ人の念むかしやしのはれむ かたやま里に 残るふるつか  通睦

同破損奉行 宮寺五平次

 いさほしの名そ世にゝほふ河内なる かた山さとに 跡をのこして  一貞

 塵に身をあるしの為そもてなせる いつゝのたまハ ひかりかくれし  橘正誼

 君か為ともにきえにし夏の野の つゆも玉もなす ひかりならすや  源年永

弘化四丁未(1848)夏五月手向 嘉永二己酉(1849)穐八月建之

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