小松山の戦いこぼればなし(10)

2015年7月21日

夏の陣と柏原の村々

 夏の陣の際に、豊臣方が各地の村を焼き払ったことはよく知られています。徳川方が攻めてきたときに、滞在する場所をなくすためだったようです。今の大阪では、豊臣贔屓の人が多いようですが、当時は平気で村を焼き払い盗みをする豊臣方に反感をもつ人のほうが多かったようです。

 玉手の安田敬介氏が所蔵されている『先考詺鑑』によると、小松山の戦いの前に、豊臣方が玉手村も焼き払ったということです。その際に、安田家のみは本陣として使用するために焼かずに残されたといいます。村人は2kmほど南東にある奥山へ逃げました。現在の旭ヶ丘、西名阪の南側です。しかし、盗人が来るので穴虫村まで逃げたと記されています。記録は残っていませんが、片山村はもちろん、国分村も多くは焼かれたのではないでしょうか。

 夏の陣のあと、玉手村にはおびただしい死骸が散乱していたということです。その後、霊火(火の玉)が毎夜とびかい、まるで霊火が合戦をしているようだったといいます。安福寺の珂憶和尚が念仏をとなえて、ようやく少なくなったということです。『先考詺鑑』は、玉手村や安田家について、延享3年(1746)にまとめられたものです。夏の陣から100年以上も後に書かれたものなので、どこまで信用できるか疑問ですが、村が焼き払われたことや、奥山へ逃げたことは事実でしょう。

 片山村の益池家は、小松山の戦いで討ち死にした徳川方の奥田忠次や山田十郎兵衛の墓守をずっと勤めてきました。奥田家からも感謝されていたようです。

 このように、戦いの前後を通じて玉手山周辺の村々にはさまざまな影響がありました。玉手山周辺が夏の陣の舞台になったということは、その地に暮らす人々が多大な迷惑を被ったということでもあるのです。400年前とはいえ、戦争によって人々が苦しめられるのは、今も昔も変わらないことなのです。

(文責:安村俊史)

 先考詺鑑

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