小松山の戦いこぼればなし(9)

2015年7月12日

又兵衛ゆかりの地を訪ねて

 後藤又兵衛が生まれたのは、播磨です。現在の加西市山下町あるいは姫路市山田町とされています。加西市には、又兵衛の子である太郎正方が開山したと伝えられる多聞寺があり、又兵衛の位牌もあります。「またべえくん」というキャラクターもあり、今回の展示でも幟などの協力をいただきました。また、山田町には後藤氏一族と関わる南山田城や春日山城跡があります。

 鳥取にも又兵衛の墓があります。又兵衛の六男とされる為勝は、又兵衛が大坂の陣の前に岡山藩主池田輝政のもとに身を寄せていたときの子で、慶長19年(冬の陣の年)に生まれたとされます。母は池田家の家臣三浦氏の娘であり、為勝は成人して三浦家を継ぎました。その後、藩主が鳥取に移封となったため、為勝も鳥取へと移り、鳥取の景福寺に又兵衛の遺髪を埋めた墓を建立しています。遺髪がどのようにして為勝の手元に渡ったのか、疑問もありますが、立派な五輪塔があり、その両脇には又兵衛の妻と為勝の墓もあります。そこには、又兵衛は黒田官兵衛の子であるとも記されています。なお、三浦氏はのちに後藤を名乗ることが許されています。

 又兵衛の長男とも三男とも四男ともいわれる佐太郎は、体が不自由であったために出家していたところを、大坂の陣の際に人質として大坂城に入ったということです。陣のあと、淡輪で百姓をしていたところ、慶安2年(1649)、夏の陣から30年以上も後に、又兵衛の子であることが発覚し、捕縛されます。厳しい取調べを受けたようですが、佐太郎に謀反の意志などないことがわかり、淡輪村から出ることを禁じられて許されます。佐太郎は承応3年(1654)に淡輪村で亡くなり、寛文10年(1670)に佐太郎の長男正利が西教寺の墓地に父の墓をつくりました。そこには、佐太郎が又兵衛の子であると刻まれています。

 これら以外にも、又兵衛桜で有名な宇陀や鹿児島、中津などに又兵衛の生存伝説が伝わっています。又兵衛の人気のほどをうかがうことができます。

(文責:安村俊史)

 又兵衛のお墓

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