小松山の戦いこぼればなし(5)

2015年5月8日

又兵衛の最後

 小松山を西に下ったあたりで、又兵衛隊は乱れながらも最後の戦いを続けていました。又兵衛の死については、さまざまな説がありますが、片山の益池家文書が矢疵とする以外は、すべて鉄砲に撃たれたとされています。どうやら、馬上で胸部もしくは腹部を鉄砲で撃たれたというのが真実のようです。それでは、誰の鉄砲に撃たれたのでしょうか。

 これも史料によってさまざまですが、伊達政宗隊、あるいは片倉小十郎重綱と記録するものが多く、伊達隊の先方を勤めた片倉重綱隊の鉄砲に撃たれたようです。伊達の本隊は玉手山を大きく南から迂回したようですが、片倉隊は小松山の南東200m付近に陣を構えていたということなので、おそらくそのまま小松山を駆け上がり、又兵衛隊を追いつめていたのでしょう。片倉以外にも、山田十郎兵衛や奥田忠次の家臣が撃ったというものもありますが、これらは討ち死にした十郎兵衛や忠次の功績を讃えるために、後世につくられた話でしょう。

 深傷を負った又兵衛は、自分の首が敵の手に渡るのを良しとせず、家臣に首を切らせて、その首を深田に埋めたと伝えられます。これも、伊達隊が首を取ったが又兵衛の家臣に奪い返されたという話や、山田十郎兵衛が取った首を伊達隊が奪ったという話も残されています。伊達家の記録には、馬上の又兵衛を鉄砲で撃ったが、又兵衛の家臣が囲んで連れて行った、旗指物は手に入れたので、伊達隊が又兵衛を討ち取ったことは間違いないとあります。どうやら、このあたりが真相のようです。

 そして、又兵衛の首については、戦いののちも発見されなかったようなので、家臣が首を切って埋めたという話も信用していいのではないでしょうか。

(文責:安村俊史)

後藤又兵衛の碑

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