小松山の戦いこぼればなし(2)

2015年4月6日 (文化財課)

徳川方の進路はどこから?

 小松山の戦いの前日、5月5日に徳川方はすでに国分に布陣していました。その前は郡山や法隆寺など大和にいたことがわかっています。それでは、徳川方はどの道を通って国分まで進んだのでしょうか。

 残念ながら、そのルートを記す史料は、ほとんど見られません。『日本戦史 大阪役』には、徳川方先陣の水野勝成隊が関屋越、その一隊である堀直寄は亀瀬越をとったほかは、わからないと書いてあります。関屋越は別の史料に田尻越とも書かれているので、原川に沿った長尾街道田尻越のルートでしょう。亀瀬越は、龍田越とも呼ばれる近世の奈良街道のことで間違いありません。

 「伊達家文書」の「片倉重綱大坂夏陣覚書」によると、伊達隊の片倉重綱は龍田越をとったと書かれています。四番隊の伊達隊は、ニ・三番隊の本多忠政隊・松平忠明隊よりも早く国分に到着しているので、伊達隊はすべて龍田越(亀瀬越)、本多・松平隊は関屋越(田尻越)をとったのではないでしょうか。

 徳川方の多くがとった田尻越は、法隆寺から国分への道としてかなりのう回路となります。なぜ龍田越をとらなかったのでしょうか。『寛政重修緒家譜』におもしろい史料があります。堀直寄が近道である亀瀬越を行こうとすると、まわりの者が、「亀瀬越は物部守屋が通って敗れた縁起の悪い道だから通るべきではない」と言われたということです。堀は「これから戦場に行くのにそんなことを気にしていられるか」と亀瀬越で進んだということです。そこには、田尻越は古来からの吉例であると書かれています。蘇我・物部の戦いは、千年前のことです。そんな話がほんとうに伝わっていたのでしょうか。いずれにしても、亀瀬越は縁起が悪いと言って避ける者が多かったようです。

 そういえば、前年の冬の陣の際にここを通った徳川家康が、亀瀬は片桐且元が首を切った亀岩のあることころだから通りたくないと言って、う回路をとったという話も伝わっています。戦国武将も、そんな縁起をかついだのでしょうか。

(文責:安村俊史)

徳川方の進路図

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