小松山の戦いこぼればなし(1)

2015年3月31日

小松山とはどこなのか?

 慶長20年(1615)の大坂夏の陣から、今年(平成27年・2015年)で400年になります。ここ柏原も、戦乱の舞台となりました。5月6日早朝から、豊臣方の後藤又兵衛隊2,800人と、徳川方23,000人が玉手山周辺で激戦をくりひろげ、又兵衛は討ち死に、遅れて到着した毛利勝永や真田信繁(幸村)らの隊が、石川西岸の道明寺から誉田で戦いを展開し、夕刻に大坂へ撤退しました。翌7日に天王寺周辺で最後の戦いがあり、その日のうちに大坂城は落城、翌日豊臣秀頼や淀殿の自害によって、戦いは終結しました。この後、名実ともに徳川の時代が訪れます。

 この玉手山から道明寺付近にかけての6日の戦いを、一般には道明寺の戦いと呼んでいます。そして、その前半部分、玉手山周辺の戦いが小松山の戦いとも呼ばれています。この小松山の戦いにかかわる話をいくつかご紹介していきたいと思います。

 まず、小松山とはどこなのか?大坂の陣に関する文献としてよく引用される参謀本部発行の『日本戦史 大阪役』には、「小山(玉手山丘陵のこと)の片山村に接するを小松山と称す」とあり、その「小松山」をめぐって戦いがくり広げられたと記されていることから「小松山の戦い」と呼ばれるようになったものと思われます。しかし、地元に残る絵図や小字などに「小松山」は見えません。ただ、やすらぎの園の南にある玉手山3号墳が「松山」「勝松山」などと呼ばれていたことが確認できますので、その北にあるやや低い玉手山1号墳が小松山と考えて間違いないようです。『日本戦史』の小松山がどこから引用されたのかわからないのですが、この地での戦いを記録した史料の多くで戦場として記されているのは「片山」です。地元でも、あまり「小松山」とは呼んでいなかったようです。

 それでは、次回以降に小松山の戦いをめぐるこぼれ話を紹介していきたいと思います。

(文責:安村俊史)

小松山古戦場の碑

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