幕末の海防・長州征伐と国分村年寄西尾家

2015年3月29日 (文化財課)

幕末の危機、増える上納金

 江戸時代も後半になると、大名や旗本は困窮し、領内の村々に上納金を命じたり、大坂や堺の商人から借金をしたりしました。また、大名や旗本の名義では商人がお金を貸してくれなくなると、村々の名義で借金をする有様でした。

 こうした状況は河内でも同様でしたが、大坂城のお膝元として、何度か本丸や西の丸の普請費用として、上納金が求められました。

 そうした中、新たな事態が発生します。嘉永七年(安政元年、一八五四)に、ロシア海軍のプチャーチンが乗船するディアナ号が大阪湾内に進入し、天保山沖に錨をおろしたのです。大坂城代の土屋寅直は町奉行や船手、蔵屋敷を持つ諸藩にも命じて、安治川口や木津川口の守りを固め、プチャーチンには伊豆下田へ回航するよう伝えました。プチャーチンはこれを承諾し、大阪湾から退去します。

 危機は去りましたが、この事件は、大阪湾の海防に対する意識を高めます。翌安政二年(一八五五)には天保山に稜堡を星型に配した砲台の建設が始まりました。こうした台場は、明石、兵庫和田岬、西宮、堺など大阪湾内の各地に設けられます。突如、必要となった膨大な防衛費を幕府や諸藩が捻出できる余裕はありません。

 河内国安宿部郡国分村の年寄を務めた西尾家の古文書によりますと、安政三年(一八五六)の内海台場の建設のための上納金を皮切りに、安政六年(一八五九)から文久三年(一八六三)に至るまで、海岸の備えを目的とした上納金が毎年課せられました。

 開港地から離れた柏原市域の村々にも、防衛費の分担という形で開国の影響が及んできたのです。

長州征伐と河内

 外国との条約をめぐる開国派と攘夷派の争い、将軍の後継者問題、皇女和宮の降嫁など、幕末の政情不安が極限に達したのが文久三年(一八六三)です。この年、徳川家光以来、約二百年ぶりに徳川家茂が将軍として上洛し、大阪湾一帯を視察しました。そして、攘夷派の急先鋒であった長州藩と一部の公家が、京都から追放される政変が起こります。その翌年の元治元年(一八六四)には、長州藩が孝明天皇の居る御所に軍を差し向け、幕府・会津藩・桑名藩・薩摩藩に撃退される禁門の変がおきました。

 朝廷より長州征伐が正式に認められた幕府は、諸藩に出兵を命じます。その集結地となったのが大坂でした。十一月に長州藩は降伏しましたが、翌年の元治二年(慶応元年、一八六五)には長州藩は再び幕府に敵対する姿勢を示します。そのため、将軍徳川家茂自身が閏五月に大坂城に入城し、大軍が再び大坂に集結したのです。ところが実際に戦争が始まったのは慶応二年(一八六六)六月で、一年近くも大坂に大軍が留まり続けたのです。開国以来の物価高、島原の乱以来の内戦による不安、将軍以下の大軍が常駐したことによる物価高は大坂とその周辺の経済を破壊していきます。

 長期にわたる将軍の大坂在城はすなわち、政府機関が江戸から大坂に移ったことに他なりません。それを支える費用は摂津・河内・和泉の村々に課されていきます。家茂が在城した期間、慶応元年十月と慶応二年四月の二度にわたって、将軍家茂の「御進発」のため、「長防」征伐のためと号して、国分村の西尾家は上納金の負担を命じられたのです。

将軍より苗字免許

 結局、慶応二年(一八六六)七月、徳川家茂が病死したことを契機に、長州征伐は休戦となりました。何ら得ることがなく、村々をいたずらに困窮させたまま、戦争は終わりました。しかし、薩摩や長州の巻き返しは厳しく、十五代将軍になった徳川慶喜も江戸に帰ることができない状況でした。慶応三年(一八六七)九月までに、薩摩・長州・土佐・芸州の四藩の間で武力討幕の約束が交わされました。

 そうした中、上納金を納めてきた国分村の西尾兵右衛門に次のような書状が与えられました。

  其方儀御国恩為冥加上納金いたし候ニ付、為御褒美其身一代苗字

  御免被 仰付候旨、板伊賀守殿被仰渡之趣為後鑑書下置もの也

    慶応三年卯九月

    多織之助(印)

                  河州安宿部郡 国分村 西尾兵右衛門

 原文でも「御国恩」と「御免」という文言に対する平出という敬語表現のため、改行しています。大まかな意味は、「貴方は国家の恩に報いるため、しっかりと上納金を納めてきました。その褒美として貴方一代限りですが公式の場で西尾という苗字を名乗ることを許可すると、将軍徳川慶喜が仰せられましたと、老中首座板倉勝静より伝えられましたので、後の証拠として書き置くものです。慶応三年九月、多羅尾織之助より、河州安宿部郡国分村 西尾兵右衛門へ」ということになります。

 江戸時代でも村の上層階級は苗字(名字)を持っていましたが、公式な文書や場所では使用できませんでした。それが西尾兵右衛門の今までの功績によって、特に許されたのです。西尾兵右衛門は本人一代だけですが、百姓身分から武士身分になりました。それは敬語表現や板倉勝静が登場するところから、徳川慶喜の思し召しであったことが推測できます。

 十月には土佐藩や芸州藩の建白により、慶喜は大政奉還に踏み切ります。九月の段階で慶喜はどこまで決断していたかを知ることはできませんが、少なくとも従来のような幕府体制は無理だと思っていたのではないでしょうか。そうした緊迫した状況下で、慶喜は慶喜なりに区切りを付けて、兵右衛門に報いようとしたのかもしれません。

 もしくは、慶喜は何も知らず、勝静が気を利かせただけかも知れませんが、将軍と村の年寄が交わった瞬間です。

 明治維新により、平民にも苗字が許可されるようになったのは、明治三年(一八七〇)のことです。

【参考文献】
柏原市立歴史資料館編『柏原市古文書調査報告書 第九集 河内国安宿部郡国分村 南西尾家文書目録1』(2014年)

(文責:天野忠幸)

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