鉄砲は、どう構えたのか? 横向きか? それとも正面向きか?

2015年3月2日 (文化財課)

 今年、平成27年(2015)は、慶長20年(1615)の大坂夏の陣から400周年にあたる。大坂夏の陣では、本市(柏原市)片山から玉手にかけての一帯が戦場となった。小松山の戦い(1)である。当然、大量の鉄砲が使用されたことだろう。戦場となった玉手山古墳群の3号墳からは当時の銃弾と思われる鉛玉が発見されている。

 ところで、この戦いの当時、戦国時代から江戸時代初期にかけてのわが国の戦場では、どのように鉄砲を構えていたのだろうか?ふと、疑問が湧いた。

 通常、銃を構えるときには、標的の方向に左わき腹を向け、横向きに構える(2)。その方が構えやすいし、もとより安定するからだ。戦闘の場合なら敵にさらす面も小さくなる。軍隊のほか、一般の競技会や狩猟などでも、この間の事情は変わらない。

 しかし、最近では、強力な防弾チョッキ(ボディアーマー)(3)の普及で、若干、事情が変わってきているという。防弾チョッキは、正面が最も丈夫で、側面(わき腹の部分)が最も弱い。つまり、これまでのように横向きに銃を構えると、この最も弱い部分を敵にさらすことになるからだ。そういうわけで、現在の軍隊(アメリカ陸軍など)では、目標に対して、できるだけ正面を向く姿勢がとられるようになっているのだとか。こうすると、前後左右へも動きやすくなって機能的だという。移動と射撃を基本とする現代の軍隊では、重要な事項だろう。ただし、実際に構えにくいし安定が悪くなる(銃を撃ったときに反動で後ろにひっくり返る危険がある)ので、少し前かがみの姿勢をとるようにするのだそうだ。

 さて、それでは、わが国の戦国時代の鉄砲足軽はどうだったのだろう。わが国の鉄砲足軽は、一応、鎧を着ている(具足を身に着けている)。これは、当時にあっては、世界的に見て非常に珍しいことだったという。当時、銃剣が使用されるようになる以前の銃兵は、白兵戦には対応できなかったため、具足を身に着ける必要がなかったからだ(4)

 しかし、わが国では、一般的には具足を身に着けていたようだ。白兵戦に対応できないという理由で具足が支給されない場合もあったようだが、それは例外だと思われる。具足もまた、正面が最も丈夫で側面が最も弱い。すると人間心理としては、どうなのだろう。最も丈夫な部分を敵に向けて鉄砲を構えたとは考えられないだろうか。具足など身に着けていない、同時代のヨーロッパの銃兵は横向きに銃を構えていたようだ。しかし、具足を身に着けていた、わが国の鉄砲足軽の場合は、できるだけ正面向きに鉄砲を構えていたと考えるのが自然なのではないだろうか。当時の足軽用具足が、どれだけ防弾の役に立ったか極めて疑問だが、心理的には大きな問題だろう。もっとも具足を身に着けていない場合には、横向きに構えていたとも考えられるが。

 もし、正面向きに構えていたとすると、わが国の戦国時代の鉄砲足軽は、16~17世紀の当時において、すでに21世紀のスタイルを先取りしていたことになる。当時は、現代のように、移動とセットになった射撃ではなかっただろうけれども(5)

 しかし、当時、実際に、どのように鉄砲を構えていたのか、文献史料や画像(屏風絵)などからは確認できない(6)。残念なことである。

(1)  藤井寺市側の地名をとって、道明寺の戦いともいう。

(2) 左利きの場合だと右わき腹を標的の方向に向けることになるが、通常、そういう構え方はしないとされる。空薬きょうが右側に排出される構造になっているので、左利きで撃つと排出された空薬きょう(強烈に熱している)が顔などに当たる恐れがあり、非常に危険だからだ。特に現在の銃は自動式(空薬きょうの排出と次弾の薬室への装填を自動で行う)なので、なおさらである。

 もとより、銃は、すべて右利き用の構造になっており、火縄銃の場合も銃の右側に火ぶたや火挟みが付いていた。フリントロック式の銃でもハンマー(撃鉄)は右側に付いている。手動式の連発銃だとボルト(槓桿・こうかん=空薬きょうの排出と次弾の装填を手動で行う装置)の操作が左利きではできない。左利きで銃を撃つのは、サバイバルゲームのときぐらいか。

 ところが、往年のアメリカのテレビドラマ「コンバット!」(「COMBAT!」、1962~1967、アメリカABCテレビ)では、銃を斜めに傾けるなどして器用に左利きで撃っているシーンが登場する(しかも2人も!)。

 火縄銃の場合は単発式だし薬きょうもないので、あらかじめ火ぶたを開くなどの操作をしておけば左利きでも撃つことができるのではないだろうか。とすれば、中には左利きで撃っていた鉄砲足軽がいたかもしれない。また一つ疑問が湧いた。

 ついでにいえば、火縄銃のグリップ(右手で握る部分)は現在の小銃のような形状ではなく、いわゆる拳銃型だ。そうすると、弓の弦を引いたときや現在の小銃のようにグリップや右手を右頬にぴったり付けるのではなく、少し離して撃っていた可能性が考えられる。そうすれば、火皿の火薬に点火したときに飛び散る火の粉も避けることができる。あるいは、いわゆる雨覆い(小雨などから火縄の火を守るために火縄部分にかぶせて使ったとされる道具)は火の粉除けの器具だったのかもしれない。またまた疑問が湧いた。

(3) かつての防弾チョッキは、拳銃弾や砲弾の破片などしか防ぐことができなかったが、近年では小銃弾を防げるものが開発され普及しつつあるという。昔の技術では、どうしても鎧で小銃弾を防げないことが、戦場からの鎧の消滅につながったわけだが、近年では、この問題をクリアすることによって、また鎧(ボディアーマー)が復活しつつあるわけである。

(4)  銃剣が「発明」されたのは17世紀のフランスだとされる。農民同士のケンカで、ナイフを銃口に差し込んで槍として使ったのがきっかけだとか。銃剣の発明によって銃兵を白兵戦に投入できるようになり、その結果、槍兵を廃止して銃兵を増やすことで戦力アップにつながったという。その後、機関銃やサブマシンガン(短機関銃)、さらにはアサルトライフル(突撃銃=現在の歩兵の主力武器)の登場などで銃剣の役割は低下していき、同時に長さも短くなっていったようだ。しかし、現在でも、その有用性は消滅していない。ところで、銃剣で突き刺すと衝撃で銃身や照準に影響があるため、事後に微調整が必要だったとか。

 初期の銃剣はソケット式で、このタイプのものを「銃槍」ともいうらしいが、ソケット式なら「銃矛」というべきではないだろうか。ソケット式の場合、先込め式の銃だと装填作業ができないうえ、突き刺して引き抜くときに銃剣が銃から抜けてしまう危険性があった。このため、しだいに剣を銃身に縛り付けるように固定するタイプのものが普及していったという。ただし、わが国では、明治になるまで、銃剣そのものが普及することはなかった。ヨーロッパなどと異なり、平和だったからだろう。

(5) 移動とセットになった射撃ではなかったことから、いわゆる膝撃ち姿勢も片方の足をお尻の下に固定させるスタイル(片方の足の側面の上に座り込み、もう片方の脚の膝の上に銃を構えた肘をのせて固定する姿勢)だったと推定される。

(6) 加えて、現在残る屏風絵などは、多くが江戸時代に描かれたものだという。したがって、どこまで正確に描写されているのか分からない。当時を知る人も、当然のことながら、いない今となっては確認のしようもない。その時代にあって当たり前だったことは、あえて記録されないだけに後世に伝わりにくい。仮に記録されていたとしても、その「当時」から少し後世の記録であったりすると、果たして、どこまで正しいのか分からなくなってしまう。「当たり前のこと」は、時代によって変化するものなのだから。

(文責:宮本知幸)

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