大和川治水・殿中殺人事件 原因は大和川の治水工事をめぐるトラブルか

2015年2月27日 (文化財課)

若年寄が大老を殿中で刺殺、犯人の若年寄も直後に老中らに斬殺される
原因は大和川の治水工事をめぐるトラブルか

 このコラムで紹介する話は、貞享元年(1684)の殿中殺人事件=若年寄による大老刺殺事件に基づいた、一つの想像による物語である。モキュメンタリー(1)、又は小説として、お楽しみいただければ幸いである(柏原市広報冊子「大和川付替え物語」(2004)に収録した文章を加筆修正)。

 大阪平野は、河川によって作られた平野である。大和川を始めとした多くの河川が上流から砂を運び、それが堆積して大地を形成していた。このような性格上、そこには常に洪水の危険が付きまとっていた。江戸時代初期、その抜本的な治水対策として、大和川の流れを付け替えるという案が提示されていた。大和から河内に流れ込んだ後、その支流・石川との合流点付近から北流している大和川を、そこから先も西流させ、直接、住吉・堺の海へ流れ込むよう付け替えるという案である。この案をめぐり、住民の間でも賛成、反対の意見が対立していた。

 こうした中、天和3年(1683)、河村瑞賢が大和川付替え反対の意見を主張したのに対し、若年寄・稲葉正休は、付替えを嘆願する今米村(現・東大阪市)庄屋・中甚兵衛の意見を入れて、付替えを主張した。両者の主張は平行線をたどったが、結局、大老・堀田正俊が瑞賢の主張を採用したところから、幕府の方針は「付替え廃止」と決定されるに至った(2)。また、その結果、施工されることになった淀川の治水工事に先立ち、稲葉正休が現地視察の後、まとめた工事の見積もり額は4万両だったが、堀田正俊が現地視察に随行した瑞賢に確認したところ「2万両で十分」との回答だったため、正俊は正休を解任したという。このとき、瑞賢の意見により実施された淀川河口の治水工事で、新しく開削されたのが安治川である。

 その後も稲葉正休と堀田正俊の意見は対立。正休の意見が、正俊によって否定されるところから、正休の正俊に対する怨恨は深まっていったという。

 そして、ついに、正休が、殿中で正俊を刺殺するという事件に発展したのである。貞享元年(1684)8月28日のことであった(3)。大和川の治水をめぐる、大老と若年寄の対立。これが、事件の原因ではないかと考えられている(4)。表向きには。

 大老・堀田正俊を刺殺した若年寄・稲葉正休は、その直後、老中・大久保忠朝らによって、めった斬りにされて殺害された。このとき、正休は、無抵抗であったという。通常であれば、逮捕して取り調べるのが“すじ”というもの。事実、このときも徳川光圀(水戸黄門)が、忠朝らの行為を批判している。しかも、正休は、正俊を刺殺した直後、忠朝に微笑みかけたという目撃証言があるともいう。

 これは、いったい、どういうことか。

 稲葉正休と大久保忠朝は、示し合わせて、正俊の殺害に及んだ。そして、忠朝が、そのことを隠すため正休の口を封じた、とは考えられないだろうか。

 では、なんのために口を封じたのか。 もちろん、事件の背後にいる黒幕のために、である。 その黒幕とは、誰か。 考えられる人物は、ただ一人。正俊の存在をうるさく思っていた人物、正俊に頭が上がらなかった人物。

 そう、将軍・徳川綱吉である。

 堀田正俊は、春日局(徳川家光の乳母)の養子。家光とは兄弟同然の間柄であり、いうなれば、徳川綱吉(家光の4男)の義理の叔父にも準じる人物。そして、将軍・綱吉の擁立に尽力した。もし、正俊がいなければ綱吉は将軍になれなかった、といわれているほどだ。こうしたところから、正俊は、綱吉政権下で大老に就任したものである。剛直な性格だったとも伝えられ、とすれば、綱吉にとっては、まさに「目の上のこぶ」という存在であったのかも知れない(5)

 将軍なのだから大老を解任すれば足りる、と一般的には考えられる。しかし、なかなかそうは簡単にいかないのが現実社会である。実際、この時代に近いところでは、中国、清の康熙帝による老臣・オボイ(オーバイ)に対する謀略事件がある。康熙8年(1669)5月3日、当時15歳の康熙帝は、祖父の代からの老臣で専横を極めるオボイを除くため、モンゴル相撲にかこつけ、見物にやってきたオボイを逮捕、最終的に終身刑に処している。その後、親政を開始した康熙帝は、清に、それまでの中国史上例を見ない最大の繁栄をもたらしたという。綱吉は、この謀略事件を知っていたのかもしれない。

 現在に比較的近いところでは、ネパールのマヘンドラ国王によるクーデター事件がある。1960年、王権強化を目指す国王は、憲法を停止、議会を解散して首相らを逮捕した(国王のクーデター)。その後、新憲法を公布して、極めて国王に有利な間接民主制をとったという。

 このように君主が臣下に対して謀略をめぐらせ陰謀を企てる可能性はゼロではない。それどころか、若くて実力を伴わない君主にあっては、隠然たる勢力を持つ老臣に対しては謀略をめぐらせるのが、むしろ普通のことなのではないだろうか。そして、その謀略は、ときに目上の者に向かう場合すらある。父親を追放した武田信玄、父王亡きあと専制を極めた母を幽閉し母の愛人を処刑したイングランド国王エドワード3世など・・・。

 しかし、事件の真相は、300年余の時を経て、すでに闇の中である。

 ただ、江戸時代の初め、本多正信らとの政争に敗れて中央から退けられていた大久保家が、忠朝のときに再び老中となり中央政界に返り咲いたというのは、歴史上の事実である。事件から2年後の貞享3年(1686)、忠朝は、下総・佐倉9万3000石から、父祖の地である相模・小田原へ11万3000石で入封を果たしている。そして、かつて九州地方などを転々としていた大久保家は、その後、約200年近くもの間、国替えを経験することもなく、小田原の地で明治を迎えている。

 ちなみに、現在の柏原市域内にも計3000石ほど、大久保家(小田原藩)の領地があったようである(堅下地区や堅上地区、国分地区の一部など)。事件後、将軍と老中の執務室に距離が生じ、このため側用人の力が増すようになっていったという。

 ところで、堀田正俊(大老、備中守、筑前守。下総・古河ほかに計13万石)と稲葉正休(若年寄、石見守、美濃ほかに計1万2000石)は、実は親戚同士だった。堀田正俊は、稲葉正休の従兄弟・稲葉正則の娘を正室に迎えている。

 また、稲葉正則の父・正勝の実母は、春日局である。つまり、堀田正俊の正室は、春日局のひ孫にあたる。堀田正俊は春日局の養子だったから、この場合、親戚関係は、どのように表現すればよいのだろう。ただし、稲葉正休と稲葉正則は、祖父(稲葉正成)を同じくしてはいるが、正休の父・正吉の実母は春日局ではない。正吉は、正勝の異母兄である。

 

(1)  Mockumentary。フェイクドキュメンタリーともいう。架空の事件をいかにも実際の事件であるかのように扱ったドキュメンタリー風作品のこと。 

(2) 付替え廃止の方針は、稲葉正休がまとめているので、正休が実際、大和川の付替えを強力に主張していたかどうかは不確実である。

(3) 稲葉正休は、堀田正俊を刺殺するに際し、刀を新調するなど周到に準備し、確実に討ち果たしている(即死ではなかったが)。このため、後の赤穂事件(松の廊下の刃傷事件、元禄14年・1701)のとき、浅野長矩への批判の一つにもなったという。長矩は吉良義央に対し、後先を何も考えずに行為におよび、あげく刺殺に失敗したと見られたためである。

(4) 史料的裏付けはない。事件の原因は不明である。ただ、当時から、さまざまな憶測はあったとされる。なにしろ、殿中で若年寄が大老を刺殺したのだから、こんな大事件はない。憶測が飛び交うことだろう。

(5) 直接の理由については堀田正俊が、徳川綱吉の生類憐みの令の施行に反対していたため、などといったものがあるが、残念ながら小説の世界だろう。実際問題として、状況証拠ばかりで史料的裏付けに乏しく想像をふくらませるしかないからである。陰謀説については、海音寺潮五郎氏の「大老堀田正俊」(1936)が初出か。最近の著作では「儒学殺人事件 堀田正俊と徳川綱吉」(小川和也・2014)がある。

(文責:宮本知幸)

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