旧陸軍戦闘機の部品発見? 市立健康福祉センター建設に先立つ発掘調査で

2015年3月4日 (文化財課)

 平成9年6月、柏原市立健康福祉センターの建設に先立つ大県南遺跡の発掘調査で、機械の部品らしき物がいくつか出土した。出土場所が、第2次世界大戦中に建設されたと見られる格納庫(掩体壕)の跡だったことから当時の戦闘機の部品ではないかと推定された。

 第2次世界大戦当時、現在の八尾空港は陸軍の飛行場(大正飛行場といった)で、その周辺地域には、飛行機を空襲から守るための格納施設、掩体壕が設けられていた。現在は、八尾市垣内あたりに1基残るだけだが、当時は、生駒山系の山裾などに、いくつも設けられていたという。これらの掩体壕の多くは、鉄筋コンクリートならぬ木筋コンクリートだったとされる。大県南遺跡の発掘調査で確認された掩体壕も、こうした類のものだったようだ。そうした場所から数十点、計十数キロにおよぶ機械の部品らしき物が出土したのだ。

 しかし、はっきり言って、調査当時、その正体は分からなかった。八尾空港にある陸上自衛隊八尾駐屯地にも問い合わせたようだが、出土場所から飛行機関係の部品と推定されただけだった。

 その出土品の一つ、扇形の金属板(長さ最大39.0センチ×幅10.5センチ)をよく見ると、表面に文字が刻まれているのを見て取ることができる。そこには、

「キ44補助翼作動角測定用定規」

とある。

  「キ○○」というのは、旧陸軍(大日本帝国陸軍)の軍用機の試作名称で、キ番号と呼ばれるものだ。そして、「キ44」というのは、昭和17年(1942)に制式採用された二式戦闘機のことである。昭和17年は、皇紀2602年にあたるところから、末尾の2をとって二式とされた。愛称を「鍾馗(しょうき)」という。同年制式化された戦闘機に二式複座戦闘機(キ45改。愛称は「屠龍(とりゅう)」)というのがあることから、二式単座戦闘機とも呼ばれる。製造は中島飛行機(現・富士重工業など)で、後の航空宇宙工学の権威、糸川英夫博士が技師として開発に関わっている。アメリカ軍が行ったテストでは「迎撃戦闘機として最高」と評価されたという。

 大正飛行場(現・八尾空港)には、西日本防空のため、昭和17年から陸軍飛行第246戦隊が配備されていた。昭和19年(1944)には、阪神地区防空のため、第11飛行師団が編成され、大正飛行場に司令部が置かれている。飛行第246戦隊は、一時期、フィリピンに転出したこともあったそうだが、基本的に大正飛行場で防空の任についていたようだ。終戦時の戦隊長は石川貫之少佐で、この人は後に航空自衛隊の幕僚長(航空幕僚長たる空将)となっている。この飛行第246戦隊が装備していたのが、二式戦闘機「鍾馗」と四式戦闘機「疾風(はやて・キ84)」である。

 補助翼というのは、飛行機の機体を横転させるときに使用する、動翼の一つで「エルロン」とも呼ばれる。扇形の金属板は、この作動角度を測るための道具のようだ。陸軍航空本部発行の「二式戦闘機(二型)取扱法」(昭和19年2月発行か)という冊子を見ると、補助翼の調整の項に「操縦桿(そうじゅうかん)ヲ左ニ二〇度(二四六粍(ミリ))傾ケタルトキ左補助翼ハ上方ヘ二五度、右補助翼ハ下方ニ二〇度(右ヘ傾ケタルトキハ反対)ノ差動運動ヲナス如ク調整ス」などとある。なるほど、金属板の文字が刻まれている面の反対側の面には、中央に0度、その左右に25度余りの広がりを持つ目盛が刻まれている。この掩体壕でも簡単な整備や機体各部のチェック作業などが行われていたのだろう。出土した金属板以外の機械の部品らしき物は、こうした整備用機器や補修用部品の類なのかもしれない。しかし、その正体は、依然不明である。

 飛行第246戦隊が装備していた二式戦闘機「鍾馗」は、2型丙であるという。

 もし、何かご存知の方がおられれば、是非とも、ご一報賜りたい。

(文責:宮本知幸)

戦闘機部品
出土した機械部品

戦闘機
‎Wikipediaより 二式戦闘機「鍾馗(しょうき)」

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