鳥坂寺について

2015年3月20日 (文化財課)

古代の柏原

 今から1300年ほど昔、大和川は北西に向けて流れており、『和名類聚抄』によれば、柏原市は大県郡の全域、安宿郡と志紀郡の一部に分かれていました。「郡」はさらに、いくつかの「郷」で構成されています。
  一郡につき一寺が普通だった当時、このあたりは一郷の中に数寺存在する全国でも屈指の寺院密集地でした。また竜田道、後の東高野街道や長尾街道、渋河道といった街道の結節点でもあることから、天皇が行幸の際に利用する離宮(行宮)も2箇所(智識寺南行宮、竹原井頓宮)あったとされています。当時の柏原市は、陸路や大和川を利用した水路によって、様々な人や物資・情報が行き交う一大先進地だったのです。

古代の柏原
古代の柏原の推定郷域と寺院

 

鳥坂寺って何?

 鳥坂寺は、8世紀の歴史書『続日本紀(しょくにほんぎ)』の中に登場する古代寺院です。奈良時代に孝謙天皇が難波宮へ行幸途中に参拝した6つの寺院(河内六寺)のひとつで、このとき孝謙天皇が参拝された他の寺院とともに河内六寺とも呼ばれています。出土する瓦などから、7世紀後半ごろに建てられ、平安時代末ごろには廃寺となっていたと考えられています。

河内六寺

 天平勝宝8歳(756年)、孝謙天皇が平城宮から難波宮に向かう際、智識寺南行宮(安堂遺跡)に泊まり参拝した、三宅寺、大里寺、山下寺、智識寺、家原寺、鳥坂寺の6つの寺院を総称したものです。鳥坂寺は、その中で一番南側にあり、巡礼最後の地とされています。

~続日本書紀 巻第十九 孝謙天皇 天平勝宝 八歳二月条より~

戌申(二十四日)、難波に行幸したまふ。是の日、河内国に至りて、智識寺の南の行宮に御します。
己酉(二十五日)、天皇、知識・山下・大里・三宅・家原・鳥坂等の七寺に幸して礼仏したまふ。
庚戌(二十六日)、内舎人を六寺に遣して誦経せしむ。儭施すること差有り。
壬子(二十八日)、大雨ふる。河内国の諸社の祝・禰宜ら一百十八人に正税を賜ふこと各差有り。是の日、行きて難波宮に至りて、東南の新宮に御します。

柏原市内にある国の史跡です

 市内の高井田横穴松岳山古墳田辺廃寺に次いで、平成24年1月に国史跡に指定されました。(鳥坂寺跡)

誰が建てたの?

 どんな理由で、どんな人たちが建てたのか、はっきりしたことは分かっていません。このあたりに勢力を持っていた鳥取氏(ととりし)という豪族が氏寺として建てたという説もありますが、豪族を中心スポンサーとする智識(仏教信者の集団)が創建にかかわっていたのかもしれません。

鳥取連の祖先・天湯河板挙命(あまゆかわたなのみこと)

 第11代の垂仁天皇(すいにんてんのう)は、皇子誉津別命(ほむつわけのみこと)を大変かわいがっていましたが、大きくなっても言葉を話しませんでした。冬のある日、天皇の傍にいた誉津別命は、大空を飛ぶ白鳥を見て「あれは何か」と言ったのです。それを喜んだ天皇は、白鳥を捕らえたものに褒美を出すとしました。名乗りを上げた天湯河板挙命(あまゆかわたなのみこと)は白鳥を追い、ついに出雲で捕まえました。献上した白鳥をかわいがった誉津別命は、しゃべるようになり、天皇は、天湯河板挙命に褒美と鳥取造という姓を授け、鳥取部・鳥養部・誉津部を定めました。天湯河板挙命は鳥坂寺の塔があった場所に建っている天湯川田神社の祭神です。

~日本書紀(巻第六 垂仁天皇 二十三年 九月~十一月条)より~

 二十三年の秋九月の丙寅の朔丁卯(二日)に、郡卿に詔して曰はく、「譽津別王は、是生年すでに三十、八掬髯鬚むすまでに、なほ泣つること兒の如し。常に言はざること、何由ぞ。因りて有司せて議れ」とのたまふ。

  冬十月の乙丑の朔壬申(八日)に、天皇、大殿の前に立ちたまへり。譽津別皇子侍り。時に鳴鵠有りて、大ぞらを度る。皇子仰ぎて鵠を觀して曰はく、「是何物ぞ」との たまふ。天皇、則ち皇子の鵠を見て言ふこと得たりと知しめして喜びたまふ。左右に詔して曰はく、「誰か能く是の鳥を捕へて獻らむ」とのたまふ。是に、鳥取 造のおや天湯河板擧奏して言さく、「臣必ず捕へて獻らむ」とまうす。すなはち天皇、湯河板擧に勅して曰はく、「汝是の鳥を獻ら ば、必ず敦く賞せむ」とのたまふ。時に湯河板擧、遠く鵠の飛びし方を望みて、追い尋ぎて出雲に詣りて、捕獲へつ。或の曰はく、「但馬の国に得つ」といふ。

 十一月の甲午の朔乙未(二日)に、湯河板擧、鵠を獻る。譽津別命、是の鵠を弄びて、ついに言語ふこと得つ。是に由りて、敦く湯河板擧に賞す。則ち姓を賜ひて鳥取造と曰ふ。因りて亦鳥取部・鳥養部・譽津部を定む。

日本書紀挿絵

 高井田廃寺から鳥坂寺跡へ

 古代寺院遺跡の多くは、当時の寺名が不明、あるいは確定できないため地名で呼ばれることが多くあります。鳥坂寺跡も地名から、「高井田廃寺」と呼ばれていました。高井田には「戸坂」という小字があることから、研究者の間では、高井田廃寺=鳥坂寺という見方が有力だったものの、智識寺、普光寺と推定する説もありました。
 そんな中、昭和58年、「高井田廃寺」の遺跡範囲内の井戸から、「鳥坂寺」と墨書した10世紀初めの土器が発見されました。これにより、この廃寺が「鳥坂寺」と呼ばれていたことがほぼ確実となったのです。

墨書土器
柏原市指定文化財 「鳥坂寺」墨書土器

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