亀の瀬こぼればなし(7)

2015年4月6日

 奈良県から大阪府へと流れる大和川。その府県境付近を「亀の瀬」といいます。

 亀の瀬周辺は、大坂夏の陣でも主要な舞台となっています。大坂城を出て戦わざるを得なくなった豊臣方は、大和から攻めてくる徳川方を、大和川が河内平野に流れ出す国分の地で防ぐ作戦をとります。この地が狭隘であるため、そこで河内平野への侵入を防ごうと考えたのです。しかし、豊臣方の予想よりも早く徳川方は国分へ進攻し、後藤又兵衛が少数の兵で徳川方の大軍と戦うことになりました。これを小松山の戦いといい、道明寺の戦いの前半にあたります。慶長20年(1615)5月6日のことです。この戦いで後藤又兵衛は討ち死に。翌7日に大坂城の南で最後の戦いがあり、大坂城は落城します。

 ここで、徳川方の河内への進路を見てみたいと思います。徳川方の第一陣・水野勝成隊の主力は田尻越えで国分へ向かったようです。本多忠政隊、松平忠明隊も田尻越えをとったようです。このように、主力は田尻越えをとったようですが、一部は竜田越えをとったことがわかっています。水野隊の堀直寄や伊達隊の片倉重綱などです。伊達隊は本隊も竜田道をとったのではないかと思われます。

 法隆寺周辺から国分へ進む場合に、竜田道をとるほうが田尻越えよりもはるかに距離が短いのに、なぜ大半が田尻越えをとったのか、謎が残ります。

 ここに、面白い逸話が残されています。堀直寄が、距離の短い竜田道を通ろうとしたときに、この道は物部守屋が通って敗れた道だから通るべきではないと言われたといいます。しかし、「戦場へ向かうときに、何を言っているか」と堀は竜田道を進んだとあります。千年も前のことに、翻弄されるようなことがあったのでしょうか。そこには、田尻越えは「古来の吉例」だと書かれています。先の亀岩の話やこの話から、なぜか亀の瀬は縁起の悪い道だという意識が当時の人々にあったようです。さて、なぜなのでしょう。謎につつまれています。

(文責:安村俊史)

夏の陣経路

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