大坂の陣と柏原5 柏原に遺された大坂の陣の記憶

2015年2月10日

焼かれた玉手村

 大坂夏の陣で破壊されたのは、大坂だけでない。堺は豊臣方によって焼かれた。
玉手村の村人は山奥へ避難したが、村は豊臣方に放火されたとの記録が残る。柏原の人々にとって、徳川家の時代とは戦災復興の過程でもあった。

奥田忠次の追悼

  玉手山には、討死した徳川方の奥田忠次らをしのぶ石塔がある。これは、夏の陣の翌年(一六一六)に子の八郎右衛門によって建立された。
 その後、破損したが、嘉永二年(一八四九)に大坂に在勤する幕府役人が修理し、忠次らを称えた和歌を刻んだ石碑を設置した。大坂の陣は幕府にとって栄光の記憶であった。

古戦場を詠んで

 延宝七年(一六七九)、柏原村の三田浄久が執筆刊行した「河内鑑名所記」(「河内国名所鑑」、「河内名所記」ともいう)には、「人々の 心おく田が 討死は 義理かた山に のこる石塔」という狂歌が掲載された。地元でも、豊臣方だけでなく、徳川方にも哀悼の念が捧げられている。

 

(文責:天野忠幸)

 

奥田三郎忠次の碑

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