市内最古の公共下水道・田輪樋(たのわのひ)

2015年1月6日 (文化財課)

 都市にかかせない施設の一つに公共下水道がある。公共下水道は、防災だけでなく環境保護のためにも大切な施設である。降った雨水を排除するための雨水用と家庭などから出る雑排水を排除するための汚水用があり、近年、いっそう整備が進み、柏原市内でも年々、その普及率が増大している。  しかし、この公共下水道、古代ローマなどの例はともかくとして、わが国では、なんとなく近・現代のものというイメージがある。しかし、決して、そんなことはない。わが国でも豊臣秀吉が建設した太閤下水を始め、けっこう古くから整備されていたようだ。太閤下水は、天正11年(1583)、大坂築城に際して建設されたもので、一部は現在も使用されているという。  さて、それでは、柏原市域ではどうなのだろうか。柏原市域内で最古の公共下水道は、いったい、いつごろ、どこに建設されたのだろう。そして、それは、今どうなっているのだろうか。

 

 柏原市国分の東条(ひがんじょう)地区、芝山(しばやま)の南側一帯は、古代からの低湿地帯だった。芝山は、大和川が大和から河内に流れ込んだところに立ちふさがるようにそびえている山だ。このため、大和川は、ここで大きく北側に湾曲、山の三方、東、北、西側を囲むように流れ、同時に山の南側をも湿地帯に変えていた。こうしたところから、芝山は、かつては「島山(しまやま)」と呼ばれていたほどだ。そう、芝山とは、元は島山だったのだ。  その湿地帯に、江戸時代の慶安元年(1648)、初めて開発の手が入った。当時の大坂城代・稲垣摂津守重綱が、地元の東野権左衛門とともに干拓工事に着手したのである。まず、大和川の水が流れ込むのを防ぐために堤防を築き、次いで溜まっている水を抜くために芝山と松岳山の間にトンネルを掘って排水管を通した。この排水管を「田輪樋」という。これが、柏原市内現存最古の公共下水道といえるのではないだろうか。田輪樋は、その後も雨水などを排水し続けた。つまり、雨水用の公共下水道である。  慶安元年に作られた、この下水道の管は、昭和25年(1950)のジェーン台風でこわれるまで、なんと、約300年間にもわたって使われていた。現在の管は、その後に作り直された新しいものだ。というわけで、柏原市内最古の公共下水道は、現在も立派にその役割を果たしているのである。

 

 ところで、稲垣摂津守重綱は、こうした功績から、黄河の治水に取り組んだという古代中国の伝説の帝王・禹(う)にちなみ、「小禹(しょうう)」と呼ばれた。国分船(江戸時代に国分村で行われていた村営の運送業)を始めた(始めさせた)のも重綱である。重綱の墓は、国分東条の墓地にあり、「小禹廟」と呼ばれている。また、宝永元年(1704)に行われた大和川の付替えで、工事の沙汰役を務めた稲垣対馬守(和泉守)重富は、重綱のひ孫である。  ちなみに「大阪」は、明治になるまで「大坂」と表記されていた。決して、書き間違いではない。念のため。

 

 現在の下水道整備としては、柏原市域では昭和46年度(1971)に堅下地区での雨水用下水管の敷設工事から着手された。汚水用下水道の建設は昭和61年度(1986)から始まり、本格的下水道整備のスタートということで、市ではこの年を「下水道元年」と位置づけた。「21世紀までに普及率50パーセント」を目指して整備が進められ、予定どおり、平成12年度(2000)に53.9パーセントを達成した。現在の普及率は、83.4パーセントである(平成25年度)。

(文責:宮本知幸)

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