大坂の陣と柏原コラム3 小松山の戦い、片山の攻防
2014年12月26日
両軍の布陣
慶長二十年(一六一五)五月五日、徳川方の伊達政宗や大和の武士たちは、先手を取って片山にまで進んだが、不利な地形と判断し、国分に陣取った。出遅れた豊臣方の後藤又兵衛は、六日未明に片山を急遽占領した。しかし、後続の真田信繁らと離れ、片山に孤立することになった。
又兵衛の奮戦
又兵衛は八時間にわたって、約十倍の徳川方を退けたが、伊達家の片倉小十郎重綱(後に重長)隊の鉄砲に当り、致命傷を受けたという説もある。又兵衛は自害し、首を石川河畔の深田に埋めさせたという。 七日には徳川家康を追い詰めた真田信繁も戦死し、八日に豊臣秀頼が自害して大坂の陣は終わった。
戦場となった玉手山丘陵
玉手山公園やその周辺には、安福寺の珂憶(かおく)が建てた戦死者を供養する宝筐印塔(ほうきょういんとう)など、両軍の戦死者をしのぶ多くの石碑がある。なお、夏の陣に因む地名である「小松山」は玉手山一号墳を、「勝松山」は三号墳を指すとみられるが、片倉重綱は玉手山を「勝田山」と呼んでいた。
(文責:天野忠幸)
夏の陣にちなむ宝筐印塔 |
国豊橋から片山・玉手山を望む |