環境への意識は、江戸時代に始まった

2014年11月14日 (文化財課)

 「環境」というと、なんとなく最近の話題のような印象がある。柏原市でも平成22年3月に市役所本庁舎などを対象にISO14001環境マネジメントシステムの自己宣言を行うなど、環境への意識が高まっている。

 しかし、「環境」に対する人々の意識が芽生えたのは、実は江戸時代初期のことだったのだ。乱開発による自然環境の破壊、ごみの大量投棄による生活環境の悪化・・・。こうした事態に対応し、初めて行政による歯止めがかけられるようになったのは、ともに江戸時代の初期、慶安から寛文年間(17世紀半ばごろ)にかけてのことだったのである。戦国乱世の終焉と人口増、生活の安定と向上といった、世の中の変化が背景となったのだろう。

 それ以前、たとえば奈良時代などにも、大都市などでは環境問題も発生していたと思われる。なにしろ、平城京という人口20万人とも推計される「巨大都市」が出現していたのだから。しかし、こうした当時の環境問題は、豊かな自然環境の中で自然に改善され、一般的な社会問題にまでは発展せずに収まっていたようだ。

 

乱開発の防止

 しかし、江戸時代ともなると、人口の急増による「超巨大都市」(江戸)の出現で、にわかに、環境問題を始めとする、さまざまな社会問題が発生してきた。

 日本の人口は、江戸時代が始まるころ、西暦1600年ごろには約1200万人であったのが、その50年後、17世紀半ばの西暦1650年ごろには約1750万人にも増えたといわれている。実に50%近い急増ぶりだ。さらに、その50年後、18世紀初頭には3000万人に達し、以後、江戸時代を通じて約3000万人で推移したとされている(1)。

 増えた人口を養うためには、食料を増産しなければならない。食料の中心は、農産物である。農産物の生産量を増やすためには、田や畑を増やすことが第一歩だ。こうしたところから、江戸時代初期、全国で新田開発が盛んに行われた。山の木を切ったり、用水路を掘ったり、河川敷を耕作したり・・・。何らの規制もないまま、新田開発が行われた。まさに乱開発である。その結果、このような乱開発を原因とする土砂崩れや洪水が各地で頻発することになったという。

 こうした事態を防ぐため、寛文6年(1666)、幕府は、「諸国山川掟(しょこくさんせんおきて)」を発布して、乱開発に歯止めをかけるとともに、特に治水・防災のための環境保護に乗り出した。内容は、草木を根こそぎ掘り起こしてはならない、川の上流の山中で両岸に木のないところには植林しなければならない、河川敷に田畑をつくってはならない、河川敷に竹や木を植えてはならない、山の中で焼畑してはならない、などというものだった(2)。

 それまで、わが国の農業政策は、増産のために新田開発、つまり耕作地面積を増大させる、というスタンスだった。それが、防災や環境保護の必要性から、これ以後、ただ面積を増大させるだけではなく、栽培方法や品種改良などによる増産も目指す、というように方針転換されたと考えられる。

 

廃棄物の処理

 また、ごみ(廃棄物)についても、以前は、そのあたりの川や空き地に遠慮なく捨てられているだけだった。人口が少ないうちは、それでもよかったのだろうが、人口が増えてくると、そうもいかない。特に江戸のまちのような「超巨大都市」ともなると、いかに江戸時代初期の昔とはいえ、その量は半端ではなかっただろう。

 江戸時代は、高度なリサイクル社会だったとされる。たとえば、紙くずは専門業者によって回収・再生され、し尿は肥料に利用できることから有料で取引されていた。しかし、それでも、やはり、ごみは出る。ちなみに江戸の人口は、西暦1650年ごろで約43万人、西暦1750年ごろで約120万人と推定されている(3)。

 このため、慶安2年(1649)以来、たびたび、川や空き地へのごみの投棄を禁止する命令(おふれ)が出されていた。つまり、このころ、「不法投棄」という考え方が生まれたのだ。生活環境の保全と美化のための環境対策である。

 ところが、いっこうに不法投棄が絶えないことから、明暦元年(1655)、すべてのごみは、永代浦(現在の東京都江東区富岡あたり)へ捨てに行くようにと、投棄場所が指定されることになった。そして、このとき、ごみの収集・運搬という業務が発生したのである。

 さらに寛文2年(1662)には、ごみの収集・運搬業者が幕府によって指定されることになった。指定制・許可制の導入である。それまでは、自分で運搬用の船を買ったり雇ったりする必要があったが、これ以後は、ごみを川岸の所定の場所に出しておけば、幕府指定の請負業者が船で収集し、永代浦まで運搬してくれるようになった。その費用は、芥銭(ごみせん)、芥取銭(ごみとりせん)などと呼ばれ、個人単位ではなく町(言ってみれば町会)単位で支払われていた。

 ともに、現代にも通じる環境への意識と施策が、このとき始まったのだ。江戸時代、それは、多くの面で現代社会に直結している時代なのである。

 


(1) 「日本列島における人口分布の長期時系列的分析:時系列推移と要因分析」社会工学研究所編 (1974)

(2) 当時の老中の連名で発布された。

 

覚 山川掟

一、近年は草木之根迄掘取候故、風雨之時分、川筋え土砂流出、水行滞候之間、自今以後、草木之根掘取候儀、可為停止事、

一、川上左右之山方木立無之所々ハ、当春より木苗を植付、土砂不流落様可仕事、

一、従前々之川筋河原等に、新規之田畑起之儀、或竹木葭萱を仕立、新規之築出いたし、迫川筋申間敷事、附 山中焼畑新規に仕間敷事、右条々、堅可相守之、来年御検使被遣、掟之趣違背無之哉、可為見分之旨、御代官中え可相触者也、

寛文六年也 午二月二日

 久大和守(久世広之) 稲 美濃守(稲葉正則) 阿 豊後守(阿部忠秋) 酒 雅楽頭(酒井忠清)

 これより6年前、淀川流域の治水対策上、山城、大和、伊賀の3か国を対象に同様の命令が出されている。すでに広域連携の必要性が認識されていたわけだ。

 淀川、大和川の治水対策をめぐる対立が、この後、貞享元年(1684)の殿中殺人事件(若年寄による大老刺殺事件)に発展していくことになる。

 

(3) 「江戸時代の都市人口」斎藤誠治(「地域開発」9月号 P48-63 1984

 

【参 考】

「平成20年度版 図で見る環境循環型社会白書」環境省 2008

山本耕平 山梨大学循環システム学科廃棄物工学講座 講義ノート 廃棄物処理の歴史・法制史 2002-2005

環境ホームページ 環境破壊の四方山話 第5回 お江戸でござる

「大江戸復元図鑑(庶民編)」 笹間良彦 遊子社 2003         他

 


(文責:宮本知幸)

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