大坂の陣と柏原コラム2 大坂夏の陣のはじまり
2014年12月8日
和睦、そして破綻
大坂冬の陣は豊臣方が真田丸などで善戦し、約一か月の籠城の後、和睦が成立した。 なお、当時の大名たちの文書によると、二の丸や三の丸まで破却して内堀を埋め立てるのは双方が合意した和睦条件であって、徳川方のだまし討ちではなかった。 ところがその後、豊臣方は再軍備を進め、徳川家康に開戦の口実を与えてしまった。
前哨戦
慶長二〇年(一六一五)四月五日、籠城は無意味と判断した豊臣秀頼は、住吉や天王寺を巡察して将兵の士気を高めた。二六日には、後藤又兵衛らが暗峠(東大阪市)を越えて、郡山城(大和郡山市)を占領するなど、先手を取ることに成功した。
柏原に迫る徳川方
しかし、徳川方が奈良に援軍を派遣すると、又兵衛らは大坂城へ撤退した。逆に徳川方の伊達政宗らが、関屋(香芝市)や亀の瀬に進撃してきた。国分や玉手山は政宗らを迎え撃つため、戦略的に重要な地点となったのである。
(文責:天野忠幸)
玉手山展望台から大阪城方面を望む |
現在の大阪城 |