知られざる古戦場 石川と大和川との合流点付近 蘇我・物部の戦いから大坂夏の陣

2014年10月30日 (文化財課)

 奈良県から西に向かって流れ、大阪府に入る大和川。この大和川に南から北流してきた石川が、柏原市役所付近で合流している。石川と大和川との合流点付近のこのあたりは、古代から何度となく戦いの舞台となってきた。つまり、複数の戦いの「古戦場」なのである。このあたりは、地形上、大和から河内への出入り口にあたっている。したがって、この地が戦いの舞台となることは、いわば、必然だったと言えるかもしれない。しかし、このことは、あまり意識されていないようだ。知られざる古戦場とでも言うべきか。

 かつて、このあたりで戦われた、いくつかの戦いについて、概観してみることにしよう。

 

蘇我・物部の戦い(丁未の乱)

 西暦538年に伝来した仏教をめぐり、西暦587年7月、崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋との間に戦端が開かれた。馬子の軍勢は、河内国渋川郡(現・東大阪市や八尾市などの一帯)の守屋の館を目指し、大和から河内に向かって進撃した。厩戸皇子(うまやどのみこ=後の聖徳太子)や泊瀬部皇子(はつせべのみこ=後の崇峻天皇)らの皇族も馬子と行動をともにしたという。両軍は、餌香川(えががわ)の河原で激突した。両軍の戦死者は数百にのぼったとされる。暑い時期のことでもあり、打ち捨てられた戦死者の状況は凄惨なものであったという。

 その後、馬子の軍勢は、稲城を築いて立てこもった守屋らを追い詰め、ついに一族もろとも討ち果たした。馬子の軍勢の苦戦に際し、厩戸皇子が四天王像を刻んで戦勝を祈願、戦況を好転させたと伝えられている。こうしたことから、戦いの後、四天王寺が建立されたという。

 餌香川とは、石川のことだと考えられる。現在の柏原市石川町・玉手町や対岸(西岸)の藤井寺市国府・道明寺などにかけての一帯が戦場となったのだろう。大和から河内に入った馬子の軍勢は、大和川との合流点付近の上流側(南側)で石川を渡ろうとし、迎え撃つ守屋の軍勢と衝突したものと思われる。馬子の軍勢が、龍田越えか竹内峠越えか、どのルートで河内に入ってきたにせよ、合流点付近か、その上流側(南側)のどこかで川を渡らなければならない。それより下流側(北側)は大和川となり、流れも複雑になる。渡るのは、非常に困難となるからだ。

 この戦いのとき、守屋が討ち取られた後も戦いを続け、最後には自刃した物部方の武人がいた。名を捕鳥部万(ととりべのよろず)という。現在の柏原市高井田や青谷のあたりを本拠とした、鳥取(ととり)氏の一族だと考えられている。万の飼い犬だった白犬は、バラバラに切断されてさらされた万の死体の中から頭を選び出してくわえると古い墓に納め、そのそばで餓死したという。

 当時、柏原市域を含めた河内一帯の中小豪族は、物部氏側だったと思われる。守屋の死後、生き残った物部の一族は、姿をかくし、名を変えて、散り散りになったようだ。

 

 壬申の乱

 西暦672年6月、天智天皇亡きあと、皇位継承をめぐる戦いが勃発した。天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのみこ=後の天武天皇)と天皇の息子・大友皇子(おおとものみこ=明治3年、弘文天皇と贈り名)の戦い、壬申の乱である。戦いは、最終的に大海人皇子の勝利に終わったが、飛鳥周辺地域を始めとして、琵琶湖東岸地域、そして、現在の柏原市域など河内地域が戦場となった。

 両者の間に戦端が開かれたとき、大海人皇子は大和を脱出して美濃国にいた。飛鳥(倭京=やまとのみやこ)地域は大海人に味方する大伴連吹負(おおとものむらじ・ふけい)が守っていた。吹負が、飛鳥の北、乃楽山(ならやま=奈良市)で大友方の武将・大野朝臣果安(おおののあそん・はたやす)の軍と戦って敗れ、からくも飛鳥に退却して態勢を立て直そうとしていたとき、大友方の武将・壱伎史韓国(いきのふびと・からくに)の軍が河内地域を進撃して来るとの報告が入った。増援に派遣された、置始連菟(おきそめのむらじ・うさぎ)の部隊と合流して態勢を立て直した吹負は、坂本臣財(さかもとのおみ・たから)らに命じて河内から大和に入るルートである龍田や大坂(奈良県香芝市逢坂=穴虫峠)、石手道(いわてみち=竹内峠か)などを守らせた。このとき、龍田の守りについた財は、さらに高安城を占領した。高安城は大友軍が守っていたが、財の部隊の接近を知り、城の税倉(ちからぐら=租税である米などを納めた倉)に火を放って撤退したという。財は、現在の柏原市峠から雁多尾畑(かりんどばた)、本堂を通って、高安城に入ったものと思われる。そして、その翌日、韓国の軍が大津道と丹比道(たじひみち)を進んでくるのを発見するや、直ちに恵我川(・衛我河=えががわ)を渡って、これを攻撃した。が、韓国の大軍の前に敗れて、懼坂(かしこざか=現在の柏原市亀の瀬あたり)まで退却を余儀なくされてしまった。

 しかし、迎撃態勢を整えた吹負は、韓国の軍が大和に入ったところをとらえて、葦池(現在の香芝市磯壁の吉ヶ池か)で迎え撃ち、これを撃破した。その後、戦乱は、吹負や村国連男依(むらくにのむらじ・おより)らの活躍により、箸墓の戦いや唐橋の戦いなどを経て、最終的に大海人皇子側の勝利に終わったのだった。

 坂本臣財が、壱伎史韓国を攻撃するため渡った恵我川(衛我河)とは、石川のことである。石川の西岸、藤井寺市、羽曳野市から東岸、柏原市にかけての一帯が戦場となったのだろう。

 ちなみに大友皇子は、唐橋の戦いに敗れた後、自害して果てたという。このとき、皇子と最期まで行動をともにした舎人(とねり=下級官人)の中に物部麻呂(石上朝臣麻呂=いそのかみのあそん・まろ)という人がいた。物部氏の末裔である。「竹取物語」の登場人物・石上まろたりのモデルともいわれる人で、後に左大臣にまでなっている。物部氏最後の栄光というべきか。もっとも、政治の実権は、このころ、すでに右大臣・藤原不比等にあったとされるが。その不比等は、現在の柏原市田辺に本拠のあった田辺史氏に養育されている。

 

 太平寺の戦い

 山城国半国と河内国半国の守護代を兼ねる木沢長政は、もう一人の河内国半国の守護代・遊佐長教(ゆさ・ながのり)らと対立していた。天文11年(1542)3月、木沢長政が支援する畠山政国の被官(上級武士に仕えた下級武士や土豪。要するに家来)、斎藤山城守親子を遊佐長教が暗殺したのをきっかけに両者の間に戦端が開かれた。戦場となったのは、河内国の落合川上畠。落合川合戦、太平寺の戦いなどと呼ばれる。落合川とは、大和川と石川の合流点付近の当時の呼び名。太平寺とは、かつて、このあたりにあったと思われる寺院の名で、現在の地名「太平寺」のルーツともなっている。しかし、「上畠」というのは、どこか分からない。このあたりに「上畠」という地名はないし、似たような地名もないからだ。とはいえ、大和川と石川の合流点付近が戦場となったのは間違いのないことだろう。

 斎藤山城守親子の暗殺で身の危険を感じた畠山政国は、高屋城を脱出、信貴山城に逃げ込んだ。遊佐長教は、畠山政国と対立している畠山稙長(たねなが=政国の兄)を擁立、1万の兵を高屋城に集結させた。これに驚いた木沢長政は、そのとき山城国あたりで細川晴元と対陣していたが直ちに陣を引き払って二上山城に入り、遊佐長教に対抗する態勢を整えた。信貴山城の畠山政国と連携し、高屋城の遊佐長教らを挟撃しようというわけだ。信貴山城は高屋城の北東方向にあり、一方、二上山城は高屋城の南東方向にある。

 3月17日、木沢長政が偵察のために一隊を高屋城に向かわせたところ、高屋城から出撃してきた遊佐軍の先発隊と衝突、戦闘が開始された。遊佐軍は、すでに本隊を動かしてきている。この状況を不利とみた木沢長政は、1万の兵のうち、3千を二上山城に残し、7千の兵を率いて石川の東岸を北へ向かって進撃した。北には、畠山政国のいる信貴山城がある。長政の主君・畠山在氏の飯盛山城も北の方角にある。こうした諸勢力と連携し、態勢を立て直したうえで遊佐軍に対抗しようとしたのだろう。兵力がほぼ同数であれば、城に立てこもって遊佐軍を迎え撃った方が良いようにも思えるが、遊佐軍に味方する勢力の合流により包囲、孤立させられることを嫌ったのかもしれない。これに対して、遊佐軍は、木沢軍を追いかける形で、石川の西岸を北上した。そして、ついに大和川との合流点、落合川で両軍が激突したのである。戦闘は、申の刻(午後4時ごろ)に開始された。

 木沢軍は、ひたすら北へ脱出しようとしたのか、まず遊佐軍に打撃を与え、その隙に北へ向かおうとしたのか、詳しいことはわからない。対する遊佐軍にしてみれば、木沢軍をこのまま北へ逃がすわけにはいかない。進路を抑え込んで脱出を阻止しようとしたものと思われる。木沢軍の進路には大和川が横たわっている。信貴山城へ向かうためには、これを渡らなければならない。その左側面から遊佐軍が、石川を渡って攻撃してくる。まず、この攻撃を防ぐ必要がある。遊佐軍からすれば、木沢軍より先に大和川まで達する必要があったことだろう。合流点の下流(北側)で大和川を渡って木沢軍の進路を塞ぐ作戦に出たのかもしれない。とにかく、両軍の間に激しい戦闘が繰り広げられた。(現在の大和川は、奈良県から西流してきた後、合流点付近から下流も、さらに西流しているが、当時の大和川は合流点付近から北上していた。)

 戦闘開始約1時間後、合戦場に向かって南下してきた新手の軍があった。遊佐長教に味方する三好長慶の軍だった。木沢長政に味方する畠山政国の軍ではなかった。三好長慶は、かつて、木沢長政に父・元長を殺された恨みを持つ。三好軍の木沢軍に対する攻撃は激しかった。側面から新手の軍の攻撃を受けた木沢軍は、総崩れとなって敗走した。しかし、遊佐・三好連合軍の追撃は、さらに激しく、ついに、木沢長政も討ち取られてしまった。

 現在、柏原市安堂・太平寺の共同墓地に木沢長政の墓と伝えられる五輪塔が残っている。江戸時代には、「キソドノ墓」と呼ばれていたらしい。以前は集落の一画にあったそうだ。そのあたりの小字名を「キソドノ墓」という。ここが、討ち取られた場所なのかもしれない。「キソドノ」は「木沢殿」がなまったものだろうか(「キザワドノ」→「キゾウドノ」→「キソドノ」)。それとも木曽義仲の方が有名だったから、このようになまって呼ばれていたのだろうか。

 

大坂夏の陣・小松山の戦い

 慶長20年(1615)4月、豊臣方と徳川方の最終決戦、大坂夏の陣が勃発した。前年の冬の陣の結果、堀を埋められ「裸城」となっていた大坂城では、冬の陣のときのように籠城戦で臨むわけにはいかない。このため、豊臣方では「野戦を挑む」ことと決定した。

 4月28日、豊臣方の大野治房らが、徳川方の浅野長晟らと泉南の樫井で合戦、豊臣方の塙団右衛門が討死した。豊臣方は、大野治房の報告により、徳川方が河内路だけでなく奈良方面からも進撃してくることを知った。

 徳川方は、紀伊方面からの部隊のほか、本隊と別働隊に分かれて大坂城を目指した。家康以下約12万の本隊は生駒山西麓の東高野街道を南下する河内路をとり、伊達政宗以下約3万5千の別働隊は奈良・法隆寺方面から河内に入る大和路をとった。大和川、石川を渡った道明寺方面で合流し、そこから北上して、平野・住吉方面から大坂城を攻撃しようとの作戦である。

 これに対し、豊臣方では、徳川方が合流する前に各個撃破する、との方針を立てた。木村重成・長宗我部盛親の軍計約9千700が八尾・若江付近で徳川本隊を側面から攻撃する。他方、真田幸村(信繁)・後藤又兵衛基次らの軍計約9千200が、隘路(あいろ=狭く険しい道)を通って河内の平野部に入って来ようとする別働隊を、地の利を活かして現在の柏原市国分あたりで、迎え撃とうというのである。

 5月6日未明、後藤又兵衛は、2千800の兵を率いて藤井寺に到着した。しかし、他の諸隊は濃霧のため、予定どおり到着できなかった。又兵衛は、単独で道明寺に進出したが、このとき、すでに徳川方は国分に入ってしまっていた。そこで又兵衛は、他の諸隊を待つことなく、山田外記、古沢満興に命じて、当初の作戦どおり、石川を渡って小松山を占領させた。山田外記らが山上に立った後、又兵衛は本隊を小松山に登らせた。すでに徳川方に国分に入られ、加えて味方諸隊の到着がない以上、もはや地の利を活かすことはできない状態になっていた。

 午前4時ごろ、後藤隊の先頭は、山を下って徳川方の諸隊と激突、攻め上って来る徳川方との間で、激しい戦闘が繰り広げられた。しかし、徳川方は、水野勝成隊、松平忠明隊、伊達政宗隊など計約2万3千もの大兵力。多勢に無勢、しだいに圧倒されて三方から包囲された形となった。そして、ついに後藤隊は壊滅、又兵衛も討死してしまった。時に6日午前10時ごろのことであったという。

 又兵衛の討死後、薄田兼相(すすきだ・かねすけ)、明石全登(あかし・たけのり)、真田幸村(信繁)、毛利勝永らの諸隊が到着、石川を渡って来る徳川方と激しい戦闘となった。しかし、兵力差は如何ともしがたく、徳川方の攻勢の前に薄田隊は総崩れになって兼相は討死、明石隊は徳川方の攻撃を防ぎながら後退を余儀なくされた。このため、毛利隊は、敗走してきた味方の兵を収容して撤退。真田隊は、味方諸隊の撤退援護のため誉田村に前進、伊達隊を撃退したものの、八尾・若江方面の戦いで木村隊が壊滅したとの報告を受け、大坂城へ撤退のやむなきに至った。

 八尾・若江方面の戦いでの木村重成の討死と木村隊、長宗我部隊の壊滅は、6日昼過ぎのことだったという。濃霧の中での遭遇戦で、徳川方の藤堂高虎、井伊直孝らの隊も大きな損害を出した。その後、大坂城は5月8日に落城、豊臣秀頼らは自害、豊臣氏は滅亡した。

 大坂夏の陣・小松山の戦いは、石川周辺の戦いの中で、現在、最も良く知られている戦いだろう。一般には、小松山の戦い、片山の戦い、あるいは道明寺の戦いなどとして知られている。しかし、地図を見れば分かるように、石川両岸を中心とする一帯が戦場となったのだ。現在、この一帯には、供養塔や戦跡碑などが残されている。ちなみに、当時の大和川の流れも、太平寺の戦いのころと基本的に変わっていない。変わるのは、江戸時代、宝永元年(1704)に付け替えられてからのことだ。

 冬の陣と夏の陣で語られる大坂の陣は、平成26年と27年に、それぞれ400周年を迎えることから、一般の関心も高いようである。

 ところで、大和(奈良県)から河内(大阪府)に入るルートに位置する柏原市亀の瀬などのあたりは、隘路となっており、まさにテルモピレー(テルモピュライ。古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの「歴史」によれば、紀元前480年、わずか300のスパルタ兵を中心とするギリシア軍計約5千余が、約210万ものペルシアの大軍を迎え撃ち、3日間にわたって、くい止めたとされる)ともいうべき立地である。一夫関に当たれば万夫も開くなし(李白「蜀道難」)であろう。このあたりに何故、一度も城や砦が築かれなかったのか、不思議といえば不思議である。現在、大阪教育大学があるあたりとか、あるいは玉手山のあたりなどに城か砦を造れば、防御体制としては完璧だと思うのだが。ひょっとすると、亀の瀬の西側に建立されていた河内国分寺(柏原市国分東条町)や合流点近くにあった鳥坂寺(柏原市高井田)などには、そういった機能もあったのかもしれない。あるいは、地形が狭隘すぎて、もともと大軍を進めるには不適当だと考えられていたため、城や砦を造るなどという発想は、最初からなかったのかもしれない。

 

【参 考】

「柏原市史」 第1巻 柏原市 1969

「柏原市史」 第2巻 柏原市 1973

「柏原市史」 第3巻 柏原市 1972 

「柏原市史」 第4巻 柏原市 1975

「玉手山物語」 柏原市 2000

「河内の古代寺院物語」 柏原市 2001
「かしわらの歴史物語」 柏原市 2005    他

(文責:宮本知幸)

 

 

合戦マップ

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